2010年12月31日金曜日

古文書合宿の思い出(阿波学会/つるぎ町一宇編)

 
 今日は2010年の大晦日です。今年も学芸業務やら、『町誌』の編さんやら、地域史の研究やら、諸学会・諸研究のお手伝いやら、本当にいろいろありました。そんな1年間のうち、うっかり掲載し忘れた平成22年度阿波学会総合学術調査の古文書合宿(地方史研究班・徳島地方史研究会主催)について、ここでちょっと紹介しておきたいと思います。

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 夏の古文書合宿は、2010年8月2日(月)・3日(火)の両日、美馬郡つるぎ町一宇地域(旧・一宇村)で開催されました。旧・一宇村の役場(現在の役場支所)は、一宇地区の中心地の赤松という集落にあります。急峻な剣山系の山肌にへばりつくように集落は広がっています。

つるぎ町一宇赤松の集落

 合宿の合間に、一番奥の集落・桑平地区まで行ってみました。8月の猛暑とはいえ、高山の気候は少し涼しく感じました。



 旧・一宇村といえば、数多くの巨樹・巨木と、「土釜」「鳴滝」といった美しい滝の数々です。写真は「土釜」直下の清流の流れです。



 さて、本論へ戻りましょう。今回、古文書調査の対象としたのは、支所(旧役場)の書庫です。写真のように支所屋上に増築された建物で、一見すると簡素な造りのように見えますが、内部は5室に分かれており、なかなか立派な施設です。



 事前にお伺いした話によれば、江戸時代の古文書はおろか、明治時代の記録も無いということでしたが、実際、書庫内に入ってみると、長年の経験から“第六感”が働きます。



 「やっぱりあるじゃないの。」と、私、少々重量オーバー気味ですが書架の最上部へよじ登ります。



 明治時代の精緻な地積図(分間図)が発見されました。大きすぎて大会議室の床に広げないと全体が見渡せません。



 同行の板東紀彦さん(徳島県立文書館主任専門員)が、同じく書庫内から江戸時代の「検地帳」と「棟附帳」を発見しました。旧・一宇地域の近世史解明の基礎となる、とても重要な古文書の数々です。



 板東さんと町田さん(鳴門教育大学准教授)が保存状態を確認する横で、私と助手は撮影の準備です。



 今回参加の助手君は、年少ながら古文書の扱いも適切で、なかなかの活躍ぶりでした。「検地帳」が納められていた木箱を丁寧に清掃し、調査記録や撮影が出来るように下準備をします。



 2日目に調査した明治・大正時代の記録でも、綴じの痛みや落丁の有無を確認しながら清掃を進めます。よくがんばりました。



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 こうして調査した成果は、1月中旬までに原稿にとりまとめて事務局(徳島県立図書館)へ提出します。来年7月には、『報告書』として刊行・公開される予定です。

 ちなみに私は、この合宿で発見・調査した江戸時代の「検地帳」をテーマに、ただいま年越しで原稿(短編)を執筆中です。

(主任学芸員 松下師一)

2010年12月29日水曜日

2010年度 阿波学会総合学術調査発表会

 
 今月初めの日曜日(12月5日)、美馬郡つるぎ町の一宇公民館で、2010年度の阿波学会総合学術調査の「発表会」がありました。

 参加したのは、私と立石恵嗣さん(元・徳島県立文書館長)、町田哲さん(鳴門教育大学准教授)の3人です。



 しかしながら今回、私は報告を担当しませんでした。運転と写真記録の係です。

 正直、大きな宿題を2本抱えていたので、とても報告をまとめることができず、2人のサポートに回りました。



 まず、立石さんから調査の概要報告が行われました。8月につるぎ町一宇地区で実施した1泊2日の古文書合宿について、その様子と成果がパワーポイントを活用してわかりやすく報告されました。

 つづいて町田さんから、徳島県立文書館所蔵の武田家文書(つるぎ町東端山)と、古文書合宿で調査した「棟附帳」を比較検討した“特論”が報告されました。

 この後、会場の方々との若干の質疑応答もあり、よい発表になったと思います。

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 さて、年明けには報告書原稿が締め切られます。今回は2人に任せてしまったので、なんとか報告書誌面には、私なりの調査成果をまとめて発表したいと思います。がんばらねば。

(主任学芸員 松下師一)

2010年12月28日火曜日

大きな“ToDoリスト”

 
 このホームページでも常々記しておりますが、私、慢性的に「締め切り」に追われています。

 ちょっとでも油断をすると、公私ともに支障を来すことから、ついに私の周囲の人々(『松茂町誌』編さん室スタッフ)によって、大きな“ToDoリスト”がつくられました。

 私が仕事中に、左前方の壁を眺めると、ずらりと並んだ“ToDoリスト”があります。

私の職場の机から、左前方の壁を眺める
 
 もちろんリスト(A4判ボード)には、私が執筆(リライト)するべき項目がポストイットに記され、たくさん貼られています。


 
 う~ん、・・・・・。一つ一つ着実に減らさないといけないなあ。

(主任学芸員 松下師一)

2010年12月24日金曜日

コウセイ恐るべし(後)

 
 「コウセイ恐るべし」とは、本来、孔子様がおっしゃったという「後生畏るべし」が正しい表現です。

 「後生」とは「先生」の反対なので、同門の若者・後輩たちという意味ですね。つまりは「若者を軽んじてはならない。多くの秘めたる可能性(優れた点)がある。」という、慢心したベテランたちへの戒めの格言です。

 でも、当館の初代館長は、「校正恐るべし」と言っていました。原稿(印刷)校正は、見直しても、見直しても、何らかの問題点が発見されるものです。そして、仕上がったときに、やっぱり「あっ!」というミスに気がつきます。ほんと「校正恐るべし」です。

 いずれにせよ「コウセイ恐るべし」は、慢心したベテラン(たぶん私もそうなりつつある)への戒めとして、座右の銘に加えたいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

 

コウセイ恐るべし(前)

 
 一昨日(22日)の『徳島新聞』の夕刊を見て“びっくり”、そして“がっかり”です。

 先日、ようやく校了して印刷に回った『徳島地方史研究会創立40周年記念論集』の誤記に気づいたのです。「あ~、やっちまった~」という、なんとも情けないやら、悔しいやらの思いです。

 というのは、今、『徳島新聞』の夕刊に、徳島県立文書館の企画展示「歴史写真でよみがえる徳島の姿」を紹介する記事が連載されています。ちょうど22日に掲載された記事が、『論集』の表紙カバーに使用した写真に関する内容だったのです。私が明治末期と思い込んでいた写真が、昭和6年のものであると明記されていました。

 すでにカバーの端に「明治時代」と印刷されているのに、それは誤りで、正しくは「昭和6年」とすべきだったのです。はぁ~、情けない。ちょっとした確認を怠り、駄目押しで手を抜いたが為に、1000冊も訂正シールを貼らなければなりません。まさに「校正恐るべし」です。とほほ・・・。

(主任学芸員 松下師一)

 

2010年12月20日月曜日

いまどきの「無形民俗文化財」

 
 一昨日(18日)の夜、徳島市立体育館の前を車で走ると、とても美しいLEDの「光のオブジェ」が飾られていました(徳島市体育振興公社の「夢ナリエ・城内 メモリアル2010」)。徳島県内に本社を置くN社が「青色発光ダイオード」の量産化に成功して以来、LEDはわが徳島県の地場産品の感があります。

 で、下記の2枚の写真をご覧ください。いずれも松茂町指定無形民俗文化財「二上り音頭と回り踊り」の様子を写した写真です。



 上の写真は、5年ほど前の様子です。



 そして、この写真は昨年(2009年)の様子です。お気づきですか。

 そうなんです。なんと櫓の装飾にLEDが導入されたのです。

 下記の写真は今年(2010年)の様子ですが、やっぱりあります“万国旗 with LED”!



 いまどきの「無形民俗文化財」は、ちょっとずつ装飾を変化させていると云うところでしょうか。

 ただ、文化財指定の本旨である「二上り音頭」と「回り踊り」の技芸は、変わらずに(変えずに)伝承していただきたいとお願いします。

(主任学芸員 松下師一)




 

2010年12月15日水曜日

大きな「宿題」が2つ終了

 
 子どもの頃、とりわけ8月の下旬、みなさんは宿題に悩まされませんでしたか。

 私はいつも宿題に苦戦していました。

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 そんな子どもの頃の思い出と関係があるのか無いのか、私はここ数か月、アフターファイブの「宿題」に悩まされていました。とっても大きな2つの「宿題」です。

 「宿題その1」は、徳島地方史研究会の『創立40周年記念論集』の編纂です。「生業」をテーマに、研究同人9人の渾身の作をとりまとめました。

 私も、明治~昭和初期の人形浄瑠璃一座(上村源之丞座)の経営をテーマに、39ページの論考を執筆しました。基本的に史料紹介(古文書の翻刻)がベースですが、必ずしも専門的な内容ばかりではなく、一般の方も読みやすい文面に仕上がっています。自分の著作の執筆・校正と、論集全体の編集・校正を並行して進めたため、時間的に猛烈にタイトなスケジュールになってしまいました。いやはや、くたくたです。

 そんな『論集』の編纂作業が、一昨日(13日の休館日)、無事に終了しました。最後は出版社に朝から「かんづめ」になって、T博物館のSさんと2人で手分けして、9論文・360ページの全体を確認しました。「はぁ~、よかった」と、安心感と充実感の刻(とき)でした。

 「宿題その2」は、南あわじ市の引田家文書の目録作成です。引田家とは、淡路人形浄瑠璃芝居の元祖「上村源之丞座」を経営していた家で、その古文書類は近世~近代の地域史を語る上で第一級のものばかりです。この夏から、380点に及ぶ古文書目録の点検・確認作業に着手しておりました。

 地元・淡路地方史関係者の期待も大きく、先の『論集』に掲載した拙稿執筆と連携させながら進めてきましたが、これもスケジュール的に厳しく、今夜、やっと完成しました(今、最後の確認作業を終えて、淡路島から帰宅したところです)。

 ほんとうれしいです。が、・・・・・。

 ありゃ、「宿題」はこれで終わりじゃないんだ。もう次が待ち構えているぞ!

 すぐに次の「宿題」に取りかからなきゃ。

(主任学芸員 松下師一)

2010年12月7日火曜日

今、論文集を編纂中!

 
 日々の仕事でも『松茂町誌』を執筆・編纂中ですが、アフター5でも『論文集』を編纂中です。

 「むむっ、単著を編纂中か?」と思われた方、それはちょっと違います。徳島地方史研究会の『40周年記念論文集』です。拙稿を含む9本の論考が掲載されます。私はそれの編纂担当なのです。

 新年早々に出版披露会を予定しているので、今、編さん作業は大詰めです。今夜は石尾和仁代表と徳島市内の喫茶店で合流し、カバー・表紙・扉のデザインを相談し、決めてきました。過去の論文集の伝統(紺色)を継承しつつ、今回の論文集の特徴がよく出たデザインになっています。いい感じです。論文集が完成したら、ぜひ皆さんにご紹介したいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

 

2010年11月28日日曜日

全史料協大会(京都市)に参加しました【番外編】

 
 11月24日・25日の両日、京都市で開催された全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)大会参加記の番外編です。

 毎年、全史料協大会の会場には、史料保存に関する専門業者(保存グッズや史料のデジタル化、史料保存関連書籍など)のプレゼンコーナーがあります。そんな中に、古文書の辞書でおなじみのT社のブースがありました。



 難の気無しに声をかけて、私が『くずし字用例辞典』の20年来のユーザーで、版権がT社に譲渡される以前のK社版を使用している事を話すと、ブース担当の社員さんが「ありがとうございます、私、この辞典と共にK社からT社に移籍した社員なんです。」とのこと。なんとも奇遇ですなぁ。

 聞けば、『くずし字用例辞典』はかつて業界老舗のY社に努めていた方が独立してK社を起こし、みずから毛筆で1文字1文字書き上げて作り上げた辞典だそうです。私はてっきり、古文書に記された文字を膨大に撮影して、その写真を貼り合わせて出版したものだと思っていましたから、びっくりしました。

 残念ながらK社は廃業してしまいましたが、今もT社にはK社から移籍した方が2名ご活躍中で、この辞典の販売やデジタル版の制作などに従事されているとのこと。座右の愛用品に係わる「小さな歴史」を知って、なんとなく中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」(NHK「プロジェクトX」エンディング曲)が聞きたくなりました。

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月24日水曜日

全史料協大会(京都市)に参加しました

 
 秋は学会シーズンですね。私は今年も全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)の第36回大会に参加しました。今年の大会は京都府立総合資料館が事務局を担当し、京都市の京都府民総合交流プラザ(京都テルサ)を会場に開催されました。



 仕事の都合上、初日だけの日帰り参加となったため、早朝に松茂を出発、なんとか希望する研修会C「公文書管理『新時代』に向けた取組」(講師:内閣官房公文書管理検討室 岡本信一 参事官)に間に合いました。

 公文書管理法の施行に向けたスケジュールや、地方公共団体(都道府県、市町村)の努力義務の実際(なにを、いつまでに、どうするべきか)など、今後の当館の業務を考えるヒントに溢れた1時間でした。



 さて、本年度の全史料協大会の試み、「ポスターセッション」(上の写真)、実によかったですね。ポスターや「壁新聞」?を前に、一生懸命に説明している学生さんや各館の若手職員さんの見ると、私の学生時代の「古文書展・考古展」を思い出しました。何名かの方に、「松下さんの館もやったらどうよ?」と声をかけていただきましたが、今はちょっと余力がないと思います。

 午後は、記念講演です。講師は、1970年代に京都府立総合資料館で「東寺百合文書」(国宝)の受け入れを担当し、その後も整理・調査に従事された上島有先生(摂南大学名誉教授)です。テーマは、東寺百合文書(1997年国宝指定)に関する理論と実践の講演です。

 上島先生が言うところの文書のアーカイブズ情報(「かたち」「かたまり」「かさなり」)について、とてもいいお話でした。国宝・東寺百合文書を事例にして具体的で説得力があり、正直、初心に帰って感動しました。今、淡路島で取り組んでいる資料整理の実務もあって、より一層、古文書整理に対する理念と信念を強くしました。記念講演をご用意くださった京都大会の事務局に感謝を申し上げます(ただ、惜しむらくは、もっと時間が欲しかった)。

 その後、総会となり、この業界を巡る様々な課題が議論されました。



 実に多様な意見が出ました。課題の確認・共有が図れてよかったと思います。



 総会終了後、心残りながら会場を後にしました。職務上の都合により、今年は初日だけの出席です。会場の外は、もうすっかり暗くなっていました。



 松茂行き高速バスが出発するJR京都駅烏丸中央口は、和ろうそくのような京都タワーがすてきでした。

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月23日火曜日

古文書合宿(淡路島編)

 
 21日(日)の朝から今日(23日)の夕方まで、2泊3日の「古文書合宿」に行ってきました。文化庁の助成事業の史料調査(「淡路人形浄瑠璃元祖・上村源之上座」の調査)を、なんとしても年内に成稿させるべく、いわゆる「かんづめ」での必死の作業です。

 合宿地の「ゆずるは荘」

 初日は有名作家気取りで意気揚々と深夜まで作業に取り組めましたが、昨日一日、宿所の「ゆずるは荘」から一歩も出ずに作業していると、なんだか精神的な疲労が蓄積しました。加えて、和室で座卓の作業は腰への負担が大きく、少々腰痛気味です(ただ、宿所の料理と風呂はよかった。近場の家族旅行にお薦めです)。

 室内のようす

 で、43歳の私がダウンしそうなのに、70歳のM先生と、60歳のN先生は元気です。深夜の作業でも、私が「日付も変わったし、もうそろそろ寝ますか?」と問いかけても、「いや、もう少し切りがいいところまでしましょう!」との返事。そのパワーに敬服しました。

 この合宿後も、仕事の合間を見て、地味な古文書整理を継続しなければなりません。諸先輩に負けないよう、がんばらねば。

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月16日火曜日

原稿続きで困った、困った!

 
 小さな公立博物館の学芸員(歴史担当)という職業柄、長短さまざまな原稿を執筆することになります。

 ここ10日ほどの間も、『町誌』のエッセイ1本、『広報まつしげ』3ページ、某長編論考1本(本文のみ)、そして当ホームページの投稿3本というところです。さすがにこれだけの量を執筆すると、少々、睡眠時間が不足気味です。もはや中年で「完徹」(完全徹夜)は無理なのですが、某長編論考の執筆で「半徹」(半分徹夜)を2日いたしました。

 「う~ん、眠たい」というところですが、どうしたわけか「出来た! 書き終えた!」という満足感の方が勝っており、眠いけど元気という状態です。・・・と、そんなこと書いてる間に、次なる原稿のリミットが迫っています。困った、困った! がんばらなきゃ。

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月8日月曜日

宮島 金刀比羅さんのお祭り(3)

 
 実は、今日(11月8日)も宮島の金刀比羅さんへ立ち寄りました。家庭の事情で、日に数回、門前を往復するものですから、露店が無くなって「祭の後」の雰囲気を見に行きました。

「祭の後」、もう露店も無い

 たぶん、祭礼の前に氏子総出で草刈りや清掃をしたのでしょう、境内がすっきりして歴史的構造物がよくわかります。例えば池の中島の小宮さん。普段は雑草に覆われて立ち入りできず、写真も撮れない状況ですが、今日はばっちりOK。



 ちなみに昭和10年代に旧海軍基地の造成により姿を消した松茂町住吉の「住吉神社」にも、境内に池があり弁財天が祀られていました。今に遺っていたなら、こんな感じだったのでしょうか。

 そうそう、松茂といえば、下記の常夜灯の寄進者名にも注目です。



 寄進者名には、江戸時代の旧村名(おおよそ現在の大字に相当)がずらりと連なっています。宮島 金刀比羅さんの地元、徳島市川内町域の旧村はもちろん、松茂町域の旧村名も揃っています。往時、この神社が地域で一番の権威と社格を誇った歴史が感じられますね。

 そして、境内の外も歩いてみました。



 本殿南側、県立十郎兵衛屋敷方向との三叉路の部分に、玉垣の寄進者として「三木與吉郎」(松茂町中喜来の旧家・元の藍商で、徳島県を代表する素封家)の銘を発見しました。航海の守り神・金刀比羅神社に、三木家ご用船の航海安全を祈願したものでしょう。



 ちなみに、「三木與吉郎」銘の石材(水平方向・横書き)の左の石柱には、近世・小松島を代表する大商人「井上甚右衛門」の銘があります。この井上家の古文書は、「井上家文書」として、徳島県立文書館に寄託されています。私が松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館に就職する前、県立文書館で非常勤職員として働いていたときに、ほんの一部ですが「井上家文書」の整理を手伝ったことが思い出されました。

(主任学芸員 松下師一)

宮島 金刀比羅さんのお祭り(2)

 
 土曜(11月6日)の夜、宮島の金刀比羅さんで白い木馬を発見して、「???」と思いながら帰ろうとすると、大鳥居の前で祭の世話役らしき人が「明日、宝物の公開があります。どなたでもご覧になれますから、見に来てくださいね。」と声をかけてくださいました。

 「おっ!宝物とはラッキー、明日、必ず観よう!」と決心し、その夜は帰宅しました。

 夏のサイクリング途中の「大松遺跡現地説明会」といい、この宝物公開といい、時には近所を散策してみるものですね。驚きの発見があります。

 そして日曜日、さっそくやって来ました。午前10時、参道のお店も営業開始ですね。



 鳥居に貼られたポスターによると、公開資料は「宮嶋金比羅絵巻物」と「祭礼絵巻関連史料」とのこと。ワクワクしますね。



 境内にある展示会場の「宮島会館」です。隣の巨大な常夜灯が、往時の阿波藍商人の財力・隆盛と、金刀比羅神社の繁栄を偲ばせます。



 会場内に入ると、まず手前側に、「明暦第三丁酉歳」(1657年)の年記がある「縁起」1巻と、関連史料2巻が展示されています。



 奥側に、「縁起」とほぼ同時期に作成されたと考えられる極彩色の「絵巻」1巻がありました。すばらしい!



 聞けば、近年、関係者の家から発見され、すぐさま先月22日に徳島市文化財に指定されたとのことです。納得です。

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月7日日曜日

宮島 金刀比羅さんのお祭り(1)


 昨日(11月6日)、仕事帰りに用事を終えて帰宅しようとすると、近くのお宮(宮島の金刀比羅さん)に夜店が出ていました。秋の祭礼です。

参道の夜店

 なんだか懐かしい雰囲気に、車を停めて立ち寄りました。しばし散策です。

本殿・拝殿から参道を望む

 すると、本殿横の建物の中から、なんだか白いものが私を見つめています。

 何だ!なんだ!??

?馬?

 馬です。白馬です。木でできた白馬です。いったい何に使うのでしょうか?

(主任学芸員 松下師一)

2010年11月1日月曜日

「第25回国民文化祭・おかやま2010」に行ってきました(後編)

 
 いやはや、午後から土砂降りです。

土砂降りの「武蔵の里」

 昼食後、念願の「人形劇団かじまやぁ」(沖縄県)を観劇しました。

 私が初めて国文祭で人形劇を見た第19回国文祭「ちくしの全国人形劇まつり」(福岡県筑紫野市)で、初日のプロ公演の一つが「人形劇団かじまやぁ」でした。あいにく満員札止めで、しかも筑紫野市実行委員会から事務説明を受ける時間と重なったので、観劇できませんでした。後日、日本経済新聞の徳島支局長(当時)から、「すばらしかった。感動した!」と聞いていたので、「いつか見たいなぁ~」と思っていましたが、美作市で観ることができるとはラッキーでした。

 会場へ入ると、なるほど「ほぼ満席」です。プロの公演で、同時間帯のアマ公演もないので、人形劇ファンが全員集合した雰囲気です。後でわかった話ですが、「人形劇団かじまやぁ」は十数年来、旧・東粟倉村(現・美作市)と交流があったとのこと。「ほぼ満席」も当然ですね。

 観た感想は、「なるほど、すごい!」というところでしょうか。第20回国文祭「まつおか人形劇カーニバル」(福井県松岡町)で、初めて「むすび座」の「西遊記」を観たときの印象に近いものがありました。人形の3次元の動きに、またスピード感あふれる動きに、素直に感動しました。

 歴史に「もしも」はありませんが、“もしも筑紫野で「人形劇団かじまやぁ」を観ていたら”、第22回国文祭「まつしげ人形劇フェスティバル」に呼んでいたかも知れません。

 終演後、あまりの雨に「もう帰ろうかな~」とも考えましたが、それを思い止まらせたのが、スタンプラリーの存在。息子のマス目を全部スタンプで埋めたいという一念で、もう一つ見ることにしました。

午前中は、曇りでした
 
 最後の人形劇は、昨年、磐田市の実行委員を努められた「人形劇団どんぐり」です。結末はちょっと不思議でしたが、わかりやすい作品だったと思います。

 終演後、ちょっと言葉を交わしましたが、「国文祭のノウハウが継承できない」ことを残念がっていました。同感です。

 まあ、とにかく天候不順でした。こんな雨にたたられては、どれだけ準備をしてもうまくいきません。準備にあたられた実行委員会の皆さん、本当にお気の毒でした。来年の国文祭で、京田辺市(現代人形劇)と京丹波町(伝統人形劇)が、晴天になることを祈りましょう。

土砂降りの中、帰りの駐車場
 

(主任学芸員 松下師一)

「第25回国民文化祭・おかやま2010」に行ってきました(前編)

 
 昨日(10月31日)、第25回国民文化祭・おかやま2010、美作市の「大道芸・人形劇フェスティバル」に行ってきました!

 自分なりに国文祭(人形劇)との関わりをまとめてみると、・・・
  • 第19回 福岡県筑紫野市、視察員
  • 第20回 福井県松岡町、視察団の随行員
  • 第21回 山口県光市、視察団の随行員 兼 引き継ぎセレモニーの進行係
  • 第22回 わが徳島県松茂町、主催事務局担当者として必死の2日間(準備は3年間)
  • 第23回 (1回休み ※ 茨城県の国文祭は、人形劇部門なし)
  • 第24回 静岡県磐田市、劇団関係者として人形浄瑠璃芝居の裏方
 そして、今回、はじめて一般のお客さんとして、日帰り家族旅行で人形劇を見に行きました。以下、リポートです。

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 朝5時30分に自宅を出発、途中2回休憩するも、神戸淡路鳴門道→山陽道→播但連絡道→中国道→鳥取道と、どれも空いていて朝9時前に会場に到着。

歓迎アーチ

 まだ準備中のようですが、模擬店もいっぱいで、「祭(まつり)」感は盛り上がっています。昨年の新型インフルエンザ対応(磐田市ではイベント自粛の余波で屋外に人がいなかった)は嘘のようです。

休憩テント前・模擬点街

 早速、「人形劇団ころりん」(大阪府)の公演会場へ。ちょっとお客様は少なかったですが、うちの息子には大受けでした。何かツボに入ったらしく、一日中、「最後の○○○おもしろかったなぁ~」と言っていました。

 「人形劇団ころりん」は、12月の「まつしげ人形劇フェスティバル2010」で、18日(土)の午後に公演してくださいます。ぜひ大勢のお客様でお迎えしたいと思います。PR、がんばります。

 引き続き、「むすび座」(プロ/名古屋市)の会場へ移動。1時間もあるので大きな作品かなと思いきや、小さな作品の2本立てでした。最初の1本目は、往年の「できるかな」、最近の「ピタゴラスイッチ」的な作品で、台詞がないので乳幼児から楽しめるものです。以前、鳴門市の保育所のフェスに「むすび座」を紹介したことがあるのですが、たぶん、こんな作品を上演してくれたと思います。これならば、乳幼児にもOKですね。安心しました。2本目は、人形劇に定番の「さるかにばなし」。素直におもしろかったです。ざっと200名ぐらいのお客様でしたが、みんな笑っていました。

 美作市では大道芸フェスと同一開催なので、大道芸的な味わいの作品をチョイスされたのかも知れませんが、せっかく「むすび座」を呼ぶのなら、もうちょっと上の年齢層向けの大きな作品でもよかったと思います(ちょうどよい広さの会場もありましたしね)。

岡山県マスコット・ももっち

 そして松茂町から出演の「影絵劇団はなほな」の会場へ。会場配置の都合上、屋外の賑わいが集客に繋がりにくいのがネックです。でも、そこそこお客様が入った時点で開演!

 まあ、「影絵劇団はなほな」は、安心して観劇できます。第22回国民文化祭(わが徳島県松茂町)で誕生した劇団が、みんなの頑張りで継続し、第24回(静岡県磐田市)、第25回(岡山県美作市)と出演していることを、関係者の一人として、本当に誇らしく思います。なお、12月の「まつしげ人形劇フェスティバル2010」では、19日(日)に“新作”を午前と午後の2回公演します。ぜひ観に来てくださいね。

 で、終演して外へ出ると、「ひぇ~」、土砂降りの雨。

 なんとか仮設テントで模擬店のメニューをいただき昼食にしましたが、お客様はどんどん帰っていきます。「こりゃ、模擬店は赤字じゃないか?!」と心配です。私が担当した第22回国文祭の時、模擬店の赤字防止に苦労したことが脳裏をよぎりました。でも、息子はテント下で行われた腹話術に見入っていました。「おとうさん、あの人形、電池が入っとんのか?」と好奇心満々です。


(主任学芸員 松下師一)

2010年10月26日火曜日

巡回展の思い出(1) 永遠の平和の夢

 
 平和を願って交換された「青い眼の人形」アリス・ジョンストンちゃんと、答礼人形「ミス徳島」とが顔を合わせた展示会が、当資料館で開催され、会期最後の日曜日にお別れ会があった。

 お別れ会には、主催関係者と共に実行委員の一人として、『嵐の中に咲いた花・青い目の人形アリスちゃん』の著者・原田一美先生も臨席され、送別の辞を述べられた。



 先生は著書の経緯について簡単に述べられた後、生ける人に話すように人形に別れのことばをかけられた。私も、「ひとたびは微笑失せし人形の夢ぞ再び永遠にこはすな」という短歌一首を献じて展示会への賛歌とした。



 因みに、 先生は私にとって、教育者としても、児童文学作家としても優れた先輩であり、暫し、久闊を叙すところとなった。

 哲学者カントが「永遠の平和のために」を書いたのは1795年秋である。カントは、人間の理性に確乎たる信頼をおいて、日米の人形は、人間の情感に切々と訴えて平和の尊さを説いた。しかし、今なお、戦争や紛争は絶えない。我々は永遠の平和の実現のためにまだまだ、様々な努力をしなければならない。人間の尊厳をかけて。

(元・館長〔現・町誌編さん主任〕 笹田博之)

2010年10月25日月曜日

『松茂町誌』余話(2) -「同時代史」に悩む -

 
 今日(月曜日)は休館日でしたが、昼前から職場の会議室に籠もって、『町誌』の原稿を整理しておりました。

 現在、編集中の『町誌』は既刊(上中下巻、続編、同第2巻)の続編なので、ここ10年程を対象期間とした「同時代史」です。近世史研究者の私は、いつも古文書と四苦八苦して歴史を叙述してきましたから、現に生きて体験した時代を叙述する「同時代史」は、何とも不思議な歴史学のカテゴリーです。「歴史と呼ぶにはあたらし過ぎないか?」という、素朴な疑問もあります。

 それでも、時代の流れは速いですね。原稿を整理していると、「えっ、まだ10年しかたっていないのか。」という驚きが随所にあります。例えば「郵政民営化」を考えてみると、ほんの十数年前まで「郵政省」で、その後、「郵政事業庁」→「日本郵政公社」→「日本郵政株式会社(他4社)」と変わります。ほんと「十年一昔」ですね。

 やはり「同時代史」も、歴史学のカテゴリーで間違いないようです。

(主任学芸員 松下師一)

2010年10月20日水曜日

やっぱり「学芸員の研究」の基本は健康

 
 昨年の12月にも、ぼぼ同じテーマでホームページを更新したのですが、またしても健康の有り難みを痛感しています。巡回展が終了して「ほっ」としたのか、鼻も喉も惨憺たる有様で、昨日は1日中微熱が続きました。

 もともと酷い鼻炎があるので、田畑の畦や空き地にセイタカアワダチソウが群生しているのを見ては、「うわっ! こりゃやばい!」と思っていましたが、ついにやられました。

 今日は半日休暇を取って耳鼻咽喉科へ行き、アレルギーなどの薬をもらい、なんとか改善・回復してきました。やれやれ。

 そんな、こんなで、体調不良ですが、①『松茂町誌』の編纂、②展示替えの実施、③秋の文化イベントの支援、④夏の研究活動のまとめ、などをがんばりたいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2010年10月18日月曜日

巡回展(9) お別れセレモニー

 
 最終日(17日)の夕方、関係者と居合わせたお客様とで、ささやかなセレモニーをしました。この日を限りに、答礼人形「ミス徳島」の県内一般公開も終了です。

 まず最初は、徳島平和ミュージアムプロジェクト実行委員会 大原会長(徳島県立博物館長)のあいさつです。



 続いて、4か所の展示会場からの報告です。

 最初の会場「文化の森・県立博物館 会場」と、次の会場「つるぎ町・道の駅 会場」に関する報告は、県立博物館の長谷川 人文課長が担当しました。



 3番目の会場「海陽町立博物館 会場」は、同館ボランティアの郡司宏子さんから報告いただきました。



 特別ゲストとして、画家・鎌田さんのスピーチです。海陽会場から企画された「さし絵原画展」の二人の画家のうちの一人です。



 第4会場(最終会場)「松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 会場」は、私が報告をしました。



 決して広くない展示会場に、20余名の方が出席してくださり、後方は立ち見になってしまいました。



 そして、来賓スピーチです。

 児童文学作家・原田一美先生による「ミス徳島」送別の言葉。



 「青い目の人形」アリス・ジョンストンちゃんの暮らす神山町から、神領小学校 大粟校長先生のメッセージ。



 そして最後は、居合わせた子どもたちから、お別れの言葉です。

「さようなら」



 「さようなら」



 セレモニー散会の後、よいご挨拶ができたので、「徳島新聞」の記者が取材をしていました。



(主任学芸員 松下師一)