2009年9月26日土曜日

故「人形恒」さんの出演ビデオ

故「人形恒」さん出演のビデオ上演
 昨日(9月25日)から、当館・図書コーナーで、故「人形恒」さん(田村恒夫さん)出演のビデオ(下記2タイトル)を上映中です。
  • 「木偶の阿波人形を作る」(当館、1993年)

  • 「VTR教材 ふるさとに伝わる阿波人形浄瑠璃芝居」
    (松茂町親しむ博物館づくり事業実行委員会、2001年)
 当分の間、上映を行う予定なので、ぜひご覧ください。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月20日日曜日

シルバーウィークに作業中!

   
 世の中、シルバーウィークの連休中ですが、我々「博物館業界」は営業中のため、職員は交代で休みを取っています(当然、交代で出勤しています)。

 昨日(9月19日)・今日(20日)、私は出勤の順番でした。秋の行楽シーズン中の大型連休なので、確かに当館のような小さな館にも、県外から小グループ(カップルや家族連れ)が次々と訪れます。とてもうれしいことです。ありがとうございます。

 本当は展示室に出て、展示資料の解説をして、お客様の旅の思い出づくりに貢献したいのですが、ちょっと溜まっている仕事があるので、午後からは部屋に籠もって黙々と作業をしました。

 そう、『松茂町誌』続編第3巻の編纂と執筆です(注1)

 今取り組んでいるのは「第8章 ねんりんピック」で、執筆者の原稿はほぼ仕上がっており、私が原稿と写真・図版のレイアウトをしています。基本的な作業はパソコンで済ませてしまうのですが、最後の細かいところになると、どうしても“原稿用紙とハサミと糊”の出番になります。

 20数年前、高校時代に『校誌』(注2)の編集委員になって編集の仕事を覚えた私にとっては、やはり最後の駄目詰めで、“原稿用紙とハサミと糊”(ついでに言うと、プラス“赤青2色の色鉛筆”)が必要です(仕事の必須アイテムです)。1週間ほど前からは、『町誌』の仕事に限ってですが、ワープロでも“原稿用紙モード”を使用することにしました。

 原稿用紙に書いて、切ったり、貼ったり。傍目には生産性が悪そうに見えるかもしれませんが、これが案外、頭の整理と原稿の整理が一度にできて効率がよいのです。本当ですよ。


(注2)『校誌』とは、学校の諸活動を記録する総合誌。徳島県の多くの高校では、年1冊編集・発行している。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月19日土曜日

突然の訃報に接して ― 「人形恒」こと田村恒夫さん ―

(写真1)展示中の歴代人形師の木偶
 今朝、『徳島新聞』の朝刊を開けてびっくりしました。

 人形師「人形恒」こと田村恒夫さんの訃報が掲載されていました。昨日(9月18日)、肺ガンで他界されたとのことです。

 田村さんには、1993年10月の当館開館の際、「中西仁智雄コレクション」の木偶人形修理をご担当いただくとともに、文化財展示室(木偶人形の展示室)の展示をご指導いただきました。

 現在展示されている歴代人形師の作品(写真1)も、すべて田村さんが演示具の取り付けを行いました。

(写真2)田村さん監修「人形浄瑠璃情報コーナー」
 また、田村さんは、阿波人形師の“技”を次代の子どもたちへ伝えることにも熱心で、館内奥の「人形浄瑠璃情報コーナー」(写真2)(“阿波木偶人形のしくみ”や“各種人形頭(かしら)の写真”などを展示)は、そのほとんどが田村さんの作品と監修によるものです。

 当館が人形浄瑠璃芝居に関する学習ビデオ教材を制作した際には、人形制作の実演も行っていただきました。ビデオカメラの前でも、いつもと同じように笑顔で、“技”の解説をしながら実際に頭を彫り、塗りを行ってくれました。1体の人形が完成するまで、数ヶ月にわたるビデオ取材に快く応じてくださいました。

(写真3)人形恒作「二人 三番叟」
 今、当館玄関ロビーに展示中の「二人 三番叟」(又平・三番叟)(写真3)は田村さんの作です。

 開館翌年に、当館の求めに応じて制作していただいたものです。「天狗久やデコ忠と一緒に収蔵されるんやけん、ええもん作らないかんわなぁ」と話されたことを、今も鮮明に思い出します。

 この1年間、私は電話で何度か田村さんとお話ししましたが、体調を崩されていることに全く気づきませんでした。ほんとうに突然の訃報でありました。

 数多のご恩・学恩に感謝の誠をささげるとともに、衷心からご冥福をお祈りいたします。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月18日金曜日

英会話に苦戦


 昨夕、ALT(アシスタント・ランゲージ・ティチャー)のランス先生が来館されました。ボランティアで「人形浄瑠璃」に関する英文パンフレットを作成されるのだそうです。

 ランス先生は日系人で日本暮らしも長いので、なかなか流ちょうな日本語を話されますが、いかんせん歴史の専門用語は難解です。「身分制度」「回船」「富裕層」「興行師」「縄張り」「小屋掛け」「手打ち興行」「売り興行」……。

 専門用語を説明するようになると、私も片言の英語でがんばりますが、悪戦苦闘です。それでも何とか取材は終了。ランス先生は納得して帰られました。

 が、果たして私の英語は通じたのでしょうか? できあがったパンフレットを見て冷や汗が出ないか、今から心配です。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月17日木曜日

研究者の「縁は異なもの」(3)

  
 今日も東京のK先生(早稲田大学准教授)が来館されました。

 土曜日・日曜日に来館され、日曜の夕方に東京に帰られたのに、またも当館で浄瑠璃本調査です。

 1週間に松茂・東京間を2往復されています。本当に「フットワークが軽いなぁ」と感心します。

 聞けば、一昨年はアメリカ合衆国ボストンの図書館に、昨年はワシントンDCの図書館に浄瑠璃本調査に行ったそうです。今年もカリフォルニア州バークレーの大学図書館に行くそうです。

 いやはや、浄瑠璃本を求めて世界中だから、1週間に松茂・東京2往復など、“朝飯前”というところでしょうか。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月13日日曜日

三木ガーデン歴史資料館(北島町)で資料調査

三木ガーデン歴史資料館
 今日の午前中、資料調査のため北島町の「三木ガーデン歴史資料館」(写真)を訪ねました。

 この資料館は、造園業を営んでいた三木安平氏が設立した私立の歴史資料館で、館名は同氏の事業にちなんでいます。研究者向けの専門館で、原則、一般公開はしていません。見学・資料閲覧には、事前予約が必要です。

 私は十数年来、折々に足を運んでいますが、訪ねるたび、また資料を見せていただくたびに、三木氏の歴史資料への情熱に感心しています。とにかくあらゆる時代・分野の資料を、幅広く収集されているのです。

 私は、今日、近代の下板地方(松茂町・北島町と徳島市川内町)の社会体育に関する資料を見せていただきました。庶民の暮らしに密着した興味深い資料です。

 この調査成果は、『広報まつしげ』10月1日号に掲載します(もちろん、このブログにもUPします)。お楽しみに!

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月12日土曜日

研究者の「縁は異なもの」(2)


 今日の午後、次代を担う浄瑠璃本研究者・K先生が来館されました(先週日曜日に来館されたK先生とは別人です)。

 私が「古文書講座(座学コース)」を指導している間、当館収蔵庫で浄瑠璃本(中西仁智雄コレクション)の調査をされ、緻密な書誌データを作成されました。私は浄瑠璃本が専門ではないので、とてもうれしいです。感謝しています。

 K先生は現在、早稲田大学の准教授ですが、奉職前の下積み時代には東京を離れ、当館で半年間、臨時職員(資料調査員)をしてくださいました。今も昔も、人形浄瑠璃研究のためなら全国どこへでも足を運ぶ、フットワークの軽い「博士」です。

(主任学芸員 松下師一)

「古文書講座」再開


 8月中、休講していた「古文書講座」を今日から再開しました。1日2講座(午前1講座、午後1講座)を、2週に1回のペースで、年間20回開講します。

 午前中がゼミナール形式の「輪読コース」で、受講生8名が交代で受け持ち箇所を解読します。中級者~上級者向けです。

 今は、明治30年代の住吉新田に関する古文書(『跡書帳』)を読んでおり、読了までには、まだまだ日数がかかりそうです。

 午後は「座学コース」(写真)で、私が解読文を板書しながら解説をします。初心者~中級者向けコースで、11名が受講しています。

 今日から、近世後期の身分規制に関する徳島藩の「御触れ」を読んでいます。今日(初回)が服装規制に関する条項で、次回が博打禁止に関する条項、その次が旅行(四国遍路)規制に関する条項、最後が他国産品の購入規制に関する条項です。

「古文書講座」座学(2009年9月12日)

 受講生の皆さんは熱心で、時になかなか鋭い質問があります。講師としては、瞬時に古文書を読み解く力が求められます。

 自分の解読力・分析力を維持するためにも、古文書講座は永く継続して開講したいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月11日金曜日

今、取り組んでいる研究(1)

上村源之丞家文書(近代)
 昨年(2008年)の1月から、淡路人形浄瑠璃資料館(南あわじ市)寄託の引田家文書の調査・研究をしています。

 引田家は、徳島藩一の人形浄瑠璃一座・上村源之丞座のオーナー家で、近世・近代の資料が相当程度残っています。私はそれら資料の中から、近代文書(写真)に絞って調査・研究することにしました。

 調べてみると、上村源之丞座の資産形成や投資、淡路島外(大阪・神戸・徳島)での劇場経営など、なかなか興味深い史実がわかってきました。すでに昨年度(2008年度)の徳島地方史研究会「公開研究大会」や、今年6月の鳴門史学会「月例会」で中間報告したところです。

 今は、徳島地方史研究会40周年記念論集『阿波・歴史と民衆 Ⅳ』への投稿を目指して、論文(試論)を執筆中です。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月6日日曜日

研究者の「縁は異なもの」(1)

 
 日曜日(9月6日)の午前中、お茶の水女子大学のK先生が来館されました。

 K先生は近世演劇史研究の第一人者で、大塚国際美術館で上演される「システィーナ歌舞伎」を観劇する前に、ちょっと立ち寄ってくれました。史料や研究について意見交換し、中西仁智雄コレクションの浄瑠璃本をご覧になって鳴門へ移動されました。

 久々にお会いしましたが、相変わらずエネルギッシュでなによりでした。

 さて、近世演劇史研究者のK先生が当館を訪ねるのは、ごく当たり前のようでありますが、実は「縁は異なもの」で、ちょっとしたエピソードがあります。

 今から8年前の2001年に、当館の資料整理のアルバイトをお願いしたIさんという女性がおりました。彼女は九州の出身でしたが、海上自衛官の夫とともに徳島に転居していたわけです。このIさん、学生時代に近代史を専攻された本格派で、結婚までは福岡市立博物館や松本清張記念館で仕事をされていました。当館では、佐藤和之家文書の整理を担当し、同『目録』を仕上げてくれました。

 そんなIさんがある日、「高校時代の同級生が人形浄瑠璃の研究をしているので、当館に調査に来るよう声をかけてもよいか?」と問うので、「もちろんOK」と答えました。

 「縁は異なもの」、その同級生がK先生でした。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月5日土曜日

展示解説について思う

   
 今日(9月5日)の午後、大阪府能勢町の「浄るりシアター」御一行が来館されました。鹿角座(ろっかくざ)の揃いのTシャツが格好よかったです。

 30分の約束で展示解説(主に人形浄瑠璃の展示について)を始めたのですが、なかなか熱心な方が多くて、あれこれ質疑応答などしているうちに、結局、1時間もかかってしまいました。幹事さんは時計を気にされており、申し訳なかったです。

 展示解説は資料を目前にした「ミニ講演会」で、私(学芸員)にとって大切な教育普及活動の一つですが、とかく時間を超過しがちです。今後は、「要領よく、簡潔に!」したいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月3日木曜日

阿波銀ホールで講演

    
 (財)阿波人形浄瑠璃振興会からの依頼で、とある女性団体の全国大会で短い(30分)講演をしました。演題は「阿波の歴史と人形浄瑠璃芝居」です。

 会場の阿波銀ホール(徳島県郷土文化会館)大ホールは、全国から参加した会員で満席で、通路に立ち見がでるほどでした。聞けば、「900人余」とのこと。こんなに大勢の前で講演するのは初めてなので、最初は少し緊張しましたが、しばらくすると調子が出てきました。

 さすがに900人余では、プリントを印刷するのも、それを配るのも大変なので、代わりにプロジェクターでパソコン画像を映すことにしました(ただ私は、未だにパワーポイントの使い方がわからないので、HTMLで簡単なホームページを作り、それを上映して講演の資料にしました)。

 講演の内容は、(1)近世阿波の諸産業(藍・塩・材木)の隆盛、(2)人形浄瑠璃芝居の発展と普及、(3)明治維新後の繁栄と衰退、(4)現代の伝承への取り組み、といったところです。県外からご参加の大勢の皆さんが、徳島の歴史と文化を少しでも知ってもらえたら(あわせて「松茂町」の名を知ってもらえたら)、私の講演も成功であったと思います。

 なお、私の講演に引き続いて、松茂町の人形浄瑠璃ふれあい座の芝居公演「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」がありました。公演終了後のカーテンコールでは、(さすが満席!)すごい拍手で、関係者一同気分を良くした一日でした。


(主任学芸員 松下師一)
 

2009年9月1日火曜日

QAシリーズ5 真水を求めて!(下)

― 時代よりも早すぎた松尾源右衛門の提言 ―

Q.(質問の要旨)江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。
(地方公務員・女性)


A.(前回の要旨)江戸時代、旧吉野川・今切川下流域の農村では、”塩害“がたびたびが発生しました。人々は上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねました。宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰も、そうした取り組みの一つで、本流の水を旧吉野川・今切川へ流し、水量を増やすための利水施設でした。

*         *         *

<前回の続き>
(写真1)松尾源右衛門の提言が記された古文書

 第十堰の完成から40年たった寛政4年(1792年)の春、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野)の庄屋・松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「(旧)吉野川付け替え工事」を提起しました。今に遺る古文書(写真1)から、その内容を紹介しましょう。


  1. 第十堰が完成したことによって吉野川の流れが遅くなり、堰の上流に土砂が堆積するようになった。

  2. そのため、堰のすぐ上流から北へ分派する旧吉野川の川底が浅くなり、水量が大幅に減ってしまった。

  3. 川底を浚渫(土砂を取り除くこと)するよりも、思い切って旧吉野川を付け替えて、第十堰の2キロメートル上流から分派するようにしたら、堆積土砂の影響を受けずにスムーズに水が旧吉野川へ流れるだろう。むしろ、堰上流に土砂が堆積し、本流の流れが悪くなれば、付け替えた旧吉野川がバイパス水路になり、水量は増えるに違いない。


 実にスケールの大きい提案です。また、その分析は実に正しく、明治17年(1884年)に明治政府の要請で吉野川を視察し、その治水計画を策定したオランダ人技術者、ヨハネス・デ・レーケも全く同じ指摘を行っています。

 しかし、残念ながら松尾源右衛門の提言は、江戸時代・200年余り昔の技術力・資金力では実現しませんでした。「時代よりも早すぎた提言」だったのです。

(写真2)第十堰付近の吉野川/赤い矢印の範囲が付け替えられた旧吉野川
 明治40年(1907年)、明治政府は国直轄の一大事業として吉野川の治水工事に取りかかります。この時、第十堰上流の旧吉野川付け替え工事も実施され、源右衛門の提言が現実の運びとなったのです。提言から135年後、デ・レーケの指摘から43年後、着工から20年後の昭和2年(1927年)、付け替えられた旧吉野川(写真2/赤い矢印の範囲)は無事竣工しました。


※『広報まつしげ』No.237
(2009年9月)掲載。