2009年12月29日火曜日

休暇こそ、がんばりどころ

 
 年末年始の休暇に入りました。館は12月28日(月)から1月4日(月)まで休館ですが、私は昨日の午前、館内改修に立ち会い、午後も次年度予算の査定に出席したので、実質、今日(29日)からが休みです。

 とはいえ、『松茂町誌』続編第3巻の原稿整理が大量に貯まっているため、今日も昼間は館内研修室に閉じ籠もって作業をし、夜も自宅に持ち帰って第9章のレイアウトをとりまとめ中です。

 この年末年始の休暇こそ、がんばりどころと考えていますが、う~ん、なかなか進まないなぁ。

(主任学芸員 松下師一)

2009年12月10日木曜日

教員研修で話をして


 今日(12月10日)夕方、喜来小学校の職員研修会で地域史に関する話をしました。「先生の先生」をしたわけですね。

 前半、「干拓」をキーワードに松茂町の新田開発の歴史を紹介し、後半は「災害」に関する歴史のトピックスをアラカルト的に話をするつもりでしたが、ちょっと時間配分を失敗して、最後は「走り走り」になってしまいました。う~ん、反省しています。

 ただ、今日の私の話が契機になって、先生方が地域(地域史)を教材化してくだされば幸いです。

(主任学芸員 松下師一)

2009年12月9日水曜日

「学芸員の研究」の基本は健康


 久々の更新です。実は先月末から体調を崩し、ここ2週間、休み休み仕事をしております。当館古文書講座を始め、外部の研究会など、多くのスケジュールを変更し、関係の皆様にたいへんご迷惑をおかけしました。なにとぞご容赦ください。

 やはり中年になり、無理が利かない気がします。何をするにも基本は健康なので、あらためて健康管理を見直したいと思います。

 ただ、養生中、自宅でゆっくり考える時間ができたので、『町誌』の原稿はある程度進めることができました。これは幸いでした。

(主任学芸員 松下師一)

2009年11月22日日曜日

全史料協大会(福島市)に参加しました(後編)

  
 大会2日目の11月19日(木)は、福島県文化会館小ホールを会場に、「大会テーマ研究会」です。

 今夏、国会で成立した公文書管理法を議論の軸に、「歴史的価値のある公文書」を遺すことの具体的手法について、様々な見知から分析と問題提起が行われました。

大会テーマ研究会(福島県文化会館小ホール)
  
 「歴史的価値がある公文書」をめぐる諸問題は、町立の資料館の学芸員である私にとって、とても重要な問題です。私も歴史家である以前に町職員として、この問題の当事者であり、立法の趣旨を具現化していく役目を担っています。気が引き締まる思いです。がんばります。


  
 歴史資料をめぐる国レベルの課題や全国各地方の課題、また最新の学会情報など、やはり全国大会は得るものが多いです。遠路、福島市まで出張した意義がありました。

 あと、千葉県のKさんから「最近、ホームページおもしろくなったね。」と、当ホームページをお褒めいただきました。ご覧いただき、誠にありがとうございました。今後も充実に努めます。

第35回全史料協大会 閉会行事
  
 閉会行事の後、早速帰路につき、福島駅で興味深い場面に出くわしました。東北新幹線「MAXやまびこ」と山形新幹線「つばさ」の連結です。思わず、にわか鉄道マニアになり写真を撮りました。(ちなみに、にわか鉄道マニアは私だけでなく、ホームは携帯カメラを構えた背広のサラリーマンでいっぱいになりました。どうやら新幹線は、“男の浪漫”のようです。)

東北新幹線「MAXやまびこ」と山形新幹線「つばさ」の連結
  
 ほんとうに充実の全国大会でした。


(主任学芸員 松下師一)

2009年11月20日金曜日

全史料協大会(福島市)に参加しました(前編)

   
 全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)第35回大会参加するため、17日(火)の午後に松茂を発ち、夜7時に福島市に到着しました。「徳島県」と「福島県」は、漢字も平仮名も1字違いですが、とても遠いです。

東京駅東北新幹線ホーム
 
 生まれて初めて東北新幹線に乗りました。秋田新幹線“こまち”を連結させた車両に乗りましたが、残念ながら秋田行きの“こまち”としては運行されず、仙台止まりの“やまびこ”として運行されました。

 さて、本題の大会ですが、初日(18日)はまず「研修会」です。私は午前中に山内幹夫さんの「福島県歴史資料館の施設と業務」(隣地見学会)へ、午後は長谷川伸さんの「地域史料の保存・整理対策 -新史料協編『古文書保存・整理の手引き』の紹介と解説-」へ出席しました。

福島県歴史資料館(外観)
  
 隣地見学の「福島県歴史資料館」は、大会会場の「福島県文化センター」の裏手にあり、ちょっとわかりにくい施設です。18日は青空でしたが急に冷え込み、昼頃には小雪が舞っていました。四国・徳島と比較すると、とても寒いです。

福島県歴史資料館(展示室)※拡大無し
  
 「資料館」の展示は、NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりのものでした。低予算で魅力的な展示を企画したことなど、なかなか勉強になる話が聞けました。

福島県歴史資料館(収蔵庫/近代文書)※拡大無し
  
 収蔵庫です。県史編纂に伴う収集史料を中心に、明治~昭和の県庁文書など近代の史料も充実していました。

福島県歴史資料館(収蔵庫/中性紙BOXファイルに整理された近代文書)
  
 私が感心したのは、近代史料を納めてある中性紙のBOXファイルです。1点ずつ背表紙の形が違うことから、1点ずつ文書(簿冊)の形状に合わせて作成したものだと思います。すばらしい。

 また、BOXファイルの背文字も、毛筆で筆耕したようです。とても上手で、感動しました。

午後の研修会(長谷川伸報告)開始前
 
 午後、長谷川伸さん(新潟市歴史博物館)の「地域史料の保存・整理対策 -新史料協編『古文書保存・整理の手引き』の紹介と解説-」は、新潟県の歴史資料をめぐる諸課題を、手引き書を刊行する協同作業を通じて解決しようと試みた実践報告でした。新潟の課題も、徳島の課題も、その多くは同じです。「人材難」「財政難」「育成難」をどう解決するのか、また解決方法をどう普及するのか。私も知恵を絞って頑張りたいと思います。(質疑の最後に、思い切って発言もしました。)

*      *      *      *


 初日の最後、研修会の後に「総会」がありました。自治体予算削減の中で、歴史資料保存の取り組みを如何に継続・発展させるのか、底冷えする小ホールで全国からの参加者による真剣な議論が展開されました。

(主任学芸員 松下師一)

※ 以下、(後編)へ続く。

2009年11月11日水曜日

「第24回国民文化祭・しずおか2009」に参加しました(後編)

  
 11月8日(日)は、まず「阿波人形浄瑠璃ふれあい座」の公演会場“ワークピア磐田”へ。そこで、国文祭実行委員会から依頼された床(太夫座)を仮設します。

 床(太夫座)は、ふれあい座の前に公演する八王子車人形(八王子市立由井中学校三味線部)も使用するので、朝一番の仕事です。実行委員会に用意していただいた机と、松茂から持ち込んだ暗幕・緋毛氈で、無事にかっこいい床(太夫座)が完成しました。



 床(太夫座)が完成すると、会場間シャトルバスに乗り、市民文化会館へ移動。

 影絵劇団はなほなの記録写真の撮影です。



 新型インフルエンザの余波で、お客様の入りが心配されましたが、まずまずの様子。たのしいステージの開演です。



 阿波(徳島県)の昔話を題材にした「あわの影絵えまき」は、美しいスクリーンとユーモアあふれるストーリーです。会場のみんなが楽しい時間を過ごせましたね。



 午後からは、再びワークピアにもどって、ふれあい座の「傾城阿波の鳴門」です。

 冒頭、私が解説をし、その後、口上の「とざい、と~ざい、…」で開演です。情感あふれる義太夫の語りと、伝統の三人遣いの技に、磐田のお客様も満足していただけたと思います。私が仮設した床(写真右下)も、見事に舞台にマッチしています。

 ちなみに、磐田市民文化会館のロビーに、磐田市指定有形民俗文化財の木偶人形が展示してありました。見れば、あきらかに阿波系の頭(かしら)です。この街にもかつて、阿波(淡路)人形浄瑠璃が伝播していたことを知り、正直驚きましたし、感動しました。何かの機会に復活すれば素晴らしいですね。



 全国の人形劇関係者と楽しい交流を深めた“ふれあい座”と“はなほな”は、夕方、磐田市を出発し、真夜中に松茂町に無事到着しました。みなさんお疲れさまでした。

(主任学芸員 松下師一)



2009年11月9日月曜日

「第24回国民文化祭・しずおか2009」に参加しました(前編)

  
 当館を拠点に活動する「阿波人形浄瑠璃ふれあい座」が、徳島県代表として第24回国民文化祭・しずおか2009に出演するので、私(主任学芸員 松下師一)もスタッフ(解説員)として7日(土)・8日(日)の両日、静岡県磐田市へ出かけてきました。

 同じく徳島県代表として出演する松茂町の「影絵劇団はなほな」と共同で貸し切りバスを仕立てて、朝5時半に当館を出発!

 途中、渋滞に巻き込まれながらも、何とか昼12時半に現地(磐田市民文化会館)に到着しました。



 「あれ、なんか静かだなあ」と思うと、理由は下記の写真で一目瞭然。

 新型インフルエンザで、出演者もお客様もキャンセル続きの様子。



 私は一昨年、“第22回国民文化祭・とくしま2007”で、「まつしげ人形劇フェスティバル」の事務局をつとめたので、磐田市実行委員会の苦しい立場を考えてしまいました。

 ちょっと残念ではありますが、こうした条件下でも来てくださるお客様と、出演のみなさんに感謝しましょう。

 さて、文化会館のロビーに来てみると、私にとって懐かしい「豊岡」の文字を発見しました。磐田市豊岡南幼稚園の作品展示です。

 私は静岡大学日本史学研究室の卒業生で、大学2年生の時に『豊岡村史』のアルバイトをしました。地元の公民館に泊まり込んで、古文書のデータ採りをした覚えがあります。あの豊岡村は、今、磐田市と合併したのですね。



 ほかロビー内では、静岡国文祭マスコットの“ふじっぴー”が大人気でした。



 夜は磐田市内のホテルで「歓迎交流会」が開催されました。開会は磐田市長さんの挨拶です。



 会場の片隅に、歴代国文祭マスコットが展示してありました。

 左から一昨年(2007年)の「すだちくん」(徳島県)、昨年の「ハッスル黄門」(茨城県)、今年の「ぶじっぴー」(静岡県)、来年の「ももっち」(岡山県)です。「すだちくん」は、一昨年、松茂町で歓迎交流会をしたときに、松茂町から磐田市の実行委員会にプレゼントしたものです。なつかしい再会でした。



 全国の人形劇関係者と意見交換をし、有意義な時間を過ごせた「歓迎交流会」でした。一昨年、松茂町に来てくださった劇団の方々とも再会でき、本当にうれしかったです。ありがとうございました。



 さあ、いよいよ明日(8日)は、“ふれあい座”と“はなほな”の公演日です。がんばらねば。

 私も朝からワークピア磐田多目的ホールで、床(太夫座)を仮設せねばなりません。

2009年11月5日木曜日

11月2日・3日は“秋祭り”

  
 11月2日(月)・3日(火・祝)は、松茂町内の各神社で、秋祭りが行われました。高度成長期に「生活改善運動」の一環として祭礼日を統一したため、町内一斉の秋祭りです。

 私は町指定無形民俗文化財「三人背継ぎ獅子舞と練り」の記録映像を撮るために、ビデオカメラを持って広島春日神社の祭礼へ出かけました。3日の11時から、旧吉野川沿いの御旅所(御神輿がしばし休む場所)で2時間ほどの撮影です。

 「三人背継ぎ獅子舞」は隔年開催なので、3日は2年に1度の貴重な撮影機会です。今年夏、財団法人空港環境整備協会から当館へご寄贈いただいたビデオカメラが大活躍しました(このビデオカメラは、8月23日の「二上り音頭」の撮影でも活躍しました)。

 少しまとまった時間を確保して、編集作業を行ってから、映像を公開したいと思います(が、秋は繁忙期でまとまった時間が確保しづらい状況です)。今しばらくお待ちください。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月31日土曜日

「まつしげ人形劇フェスティバル2009 秋大会」の舞台裏

  
 10月17日(土)・18日(日)に行われた「まつしげ人形劇フェスティバル2009 秋大会」では、当館と隣の図書館に、臨時の舞台を仮設しました。

 (次の写真)は、当館の図書閲覧コーナーに、オープニングの「寿式三番叟」用の舞台を仮設している様子です。木枠を立てて、各所に暗幕を取り付けて仮設舞台にします。(ちなみに作業中の後ろ姿は、私〔松下学芸員〕です。)



 お客席の前方に畳を、後方にイスをおいて完成です。



 文化財展示室(木偶人形の展示室)には、人形浄瑠璃こども教室「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」とふれあい座「壷坂観音霊験記 内の段」で使用する舞台を仮設しました。



 当館東隣の図書館研修室には、影絵劇団はなほな用の舞台と客席を設営しました。お客席の畳の目が交互に並べられ、綺麗な“市松模様”になっています。会場担当者のこだわりが感じられますね。



 さて、今回のフェスティバルには、“てるてるアートバルーン”(橋本陽一さん)がボランティア協力してくださいました。かわいい風船のプレゼントに、お客様から大好評でした。



(主任学芸員 松下師一)

2009年10月12日月曜日

文化財展示室出入口の“のれん”

  
 今月から、文化財展示室出入口の“のれん”が変わりました。

 9月まで南出入口には“のれん”は無く、北出入口には2007年に舩井学芸員が藍染めで創作した「国文祭すだちくん」の“のれん”がありました(下記写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「国文祭すだちくん」”(2007年)

 今月からは南出入口に新たに“のれん”が架けられました。舩井学芸員作“藍染めのれん「ようこそ&まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)です(次の写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「ようこそ&まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)

 北出入口は、同じく舩井学芸員作“藍染めのれん「まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)に変わりました(最後の写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)

 いずれの“のれん”もデザインは斬新ですが、当館別館の藍染め作業室で染め上げた「伝統的阿波藍」の逸品です。

 当館来館の際には、ぜひご覧になってください。

主任学芸員 松下師一

2009年10月7日水曜日

開館記念日(10月7日)を機に

  
 平成5年(1993年)10月7日に開館した当館は、このたび「開館16周年」を迎えました。

 この間、当館の総入館者(利用者)数は、32万人余となっています。人口1万5千人の小さな町の資料館(法律上は「登録博物館」)として、これだけ多くの皆様にご来館(ご利用)いただいたこと、職員一同を代表して心から感謝を申し上げます。

 思えば、当館にとってこの16年間は、前半と後半でかなり大きな質的な差異があったと思います。

 前半の8年間は、「小さいけれど、学術的な魅力にあふれた館」を目指し、企画展示と講座・教室活動に重きを置いた運営を行いました。初代館長の言葉を借りれば、「小さな単科大学」のイメージでした。

 後半の8年間は、「新分野・新事業へ積極的に挑戦する館」を目指し、学術研究活動はもちろんのこと、様々な文化イベントや新規事業に取り組みました。一例を挙げれば、足かけ4年にわたり国民文化祭「まつしげ人形劇フェスティバル」の事務局を担当し、ふるさと松茂に「文化」をキーワードにした「まちづくり」の種を蒔きました。

 さて、これからはどう進むべきか。

 開館記念日を機に、職員間で議論を深めてみたいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月4日日曜日

とてもうれしい絵葉書


 先日、版画家の井上員男先生から、絵葉書をいただきました。裏面に先生の版画作品が写真プリントされています。

 「雪国25」というとても素敵な作品で、このホームページに掲載したいところですが、当館は現品を所蔵しておらず、所有権・著作権のことが心配なので、ここへの掲載は見合わせます(井上先生ご自身のホームページに掲載されているとのことです)。

 当館所蔵の井上先生の作品は4点あります。下の(写真)はそのうちの一つ、「夕霧」(ペーパードライポイント)です。

井上員男作「夕霧」(ペーパードライポイント)

 モデルとなった木偶頭(天狗弁作「夕霧」)の美しさが、余すところ無く表現されています。むしろ、モノクロであるだけに、人形師が表現した三次元の造形美が、二次元(平面)の世界の中に、余分な色を排して、ストレートに再現されているように私には思われます。

 そんな素敵な収蔵資料の作者から、素敵な絵葉書が届いたわけですね。学芸員として、何ともうれしくてなりません。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月3日土曜日

縦書きに洋数字(1)

 
 『町誌』の執筆・編纂に携わって以来、とても頭を悩ましている問題があります。それは、本文(縦書き)中に使用される数字の表記のことです。

 既刊の『松茂町誌』では、本文の数字表記は全て漢数字を使用しています。従来の日本語表記では、至極当然のことでしょう。

 しかしながら、21世紀になり、新聞全国紙が徐々に洋数字を表記の中心にするようになりました。

 わが『松茂町誌』続編第3巻編さん室でも、昨年春の編纂事業着手以来、いろいろと意見が交わされましたが、「未だ地元新聞(徳島新聞)など多数の新聞は、漢数字が表記の中心である。」と現状確認して、洋数字への移行は「時期尚早」と判断しました。

 今年5月、ようやく漢数字を基本にした「『松茂町誌』執筆要領」を取り決め、印刷所への入稿を始めたところだったのに、なんと、なんと、……。

 6月1日に共同通信社が洋数字に移行したことから、今夏、地元新聞を含む全国の新聞(日刊紙)のほとんどが洋数字に移行してしまいました。はぁ~、悩ましい。

 とりあえず、今、洋数字へ移行する可能性を再度検討中です。はぁ~、悩ましい。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月1日木曜日

QAシリーズ6 「三村聯合運動会」の思い出

  
Q.私は北島町に住んでおり、今年、満84歳になります。

 毎年秋になると、子どものころに参加した「三村聯合(れんごう)運動会」のことを思い出します。確か、川内の競馬場で、北島・松茂・川内の小学生が一堂に会し、一緒に競技したと記憶しています。

 しかしながら、『北島町史』を読んでも、この運動会の記事が載っていません。昔の旧友に尋ねても、運動会があったことは覚えていますが、くわしいことはわかりません。

 何か松茂町歴史民俗資料館でわかることはありませんか。ぜひ教えてください。

(北島町在住・84歳男性)

 


A.ご質問の「三村聯合運動会」は、戦前、松茂村(現在の松茂町)・北島村(北島町)・川内村(徳島市川内町)が、文字どおり「聯合」(連合)して開催していた運動会です。

 『松茂町誌』中巻によると、「三村小学校が連合して毎年運動会が行われた。」(431ページ)とありますが、後述する資料を読むと、単なる小学校の行事ではなく、村役場・村(地域社会)を挙げての大イベントであったようです。

三木ガーデン歴史資料館所蔵「賀川家文書」 当時の資料はあまり残っていませんが、三木ガーデン歴史資料館(北島町中村)所蔵の賀川家文書(写真)によると、第1回運動会は明治33年(1900年)11月に川内で開催され、第2回は翌34年10月に北島で、第3回は35年11月に松茂で開催されています。会場は、「川内の競馬場」に固定されていたわけではなく、年ごとに持ち回りであったようです。

 また、第1回の運動会長は川内出身の衆議院議員・橋本久太郎、第2回は北島の実業家・篠原喜太郎、第3回は松茂の実業家・三木與吉郎で、三村の村長は幹事(事務責任者)という役回りでした。おそらく3村で実行委員会のような組織を作り、輪番で村の名士を会長に据え、村長(村役場)が実務を担当して開催したのでしょう。

 この『広報まつしげ』の前身である戦前の『松茂村報』を読み直すと、大正15年(1926年)9月号に、松茂で「三村聯合運動会」の協議を行い、三村長と全校長が出席している記事があります。また、昭和3年(1928年)12月号には、北島で開催された「三村聯合運動会」に県庁から来賓を迎えた記事があります。明治33年に始まったこの運動会は、大正から昭和へと、間違いなく秋の大イベントとして定着していました。

 ご質問者の思い出も、昭和初期の運動会の様子と推察されます。

*        *        *

 さて、ところがこの運動会、「いつ終わったのか?」が定かではありません。記録や資料が無いのです。読者の皆さん、「三村聯合運動会」の“最終回”について何かご存じのことはありませんか。ぜひ資料館まで情報をお寄せください。

 

※『広報まつしげ』No.238(2009年10月号)掲載。

2009年9月26日土曜日

故「人形恒」さんの出演ビデオ

故「人形恒」さん出演のビデオ上演
 昨日(9月25日)から、当館・図書コーナーで、故「人形恒」さん(田村恒夫さん)出演のビデオ(下記2タイトル)を上映中です。
  • 「木偶の阿波人形を作る」(当館、1993年)

  • 「VTR教材 ふるさとに伝わる阿波人形浄瑠璃芝居」
    (松茂町親しむ博物館づくり事業実行委員会、2001年)
 当分の間、上映を行う予定なので、ぜひご覧ください。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月20日日曜日

シルバーウィークに作業中!

   
 世の中、シルバーウィークの連休中ですが、我々「博物館業界」は営業中のため、職員は交代で休みを取っています(当然、交代で出勤しています)。

 昨日(9月19日)・今日(20日)、私は出勤の順番でした。秋の行楽シーズン中の大型連休なので、確かに当館のような小さな館にも、県外から小グループ(カップルや家族連れ)が次々と訪れます。とてもうれしいことです。ありがとうございます。

 本当は展示室に出て、展示資料の解説をして、お客様の旅の思い出づくりに貢献したいのですが、ちょっと溜まっている仕事があるので、午後からは部屋に籠もって黙々と作業をしました。

 そう、『松茂町誌』続編第3巻の編纂と執筆です(注1)

 今取り組んでいるのは「第8章 ねんりんピック」で、執筆者の原稿はほぼ仕上がっており、私が原稿と写真・図版のレイアウトをしています。基本的な作業はパソコンで済ませてしまうのですが、最後の細かいところになると、どうしても“原稿用紙とハサミと糊”の出番になります。

 20数年前、高校時代に『校誌』(注2)の編集委員になって編集の仕事を覚えた私にとっては、やはり最後の駄目詰めで、“原稿用紙とハサミと糊”(ついでに言うと、プラス“赤青2色の色鉛筆”)が必要です(仕事の必須アイテムです)。1週間ほど前からは、『町誌』の仕事に限ってですが、ワープロでも“原稿用紙モード”を使用することにしました。

 原稿用紙に書いて、切ったり、貼ったり。傍目には生産性が悪そうに見えるかもしれませんが、これが案外、頭の整理と原稿の整理が一度にできて効率がよいのです。本当ですよ。


(注2)『校誌』とは、学校の諸活動を記録する総合誌。徳島県の多くの高校では、年1冊編集・発行している。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月19日土曜日

突然の訃報に接して ― 「人形恒」こと田村恒夫さん ―

(写真1)展示中の歴代人形師の木偶
 今朝、『徳島新聞』の朝刊を開けてびっくりしました。

 人形師「人形恒」こと田村恒夫さんの訃報が掲載されていました。昨日(9月18日)、肺ガンで他界されたとのことです。

 田村さんには、1993年10月の当館開館の際、「中西仁智雄コレクション」の木偶人形修理をご担当いただくとともに、文化財展示室(木偶人形の展示室)の展示をご指導いただきました。

 現在展示されている歴代人形師の作品(写真1)も、すべて田村さんが演示具の取り付けを行いました。

(写真2)田村さん監修「人形浄瑠璃情報コーナー」
 また、田村さんは、阿波人形師の“技”を次代の子どもたちへ伝えることにも熱心で、館内奥の「人形浄瑠璃情報コーナー」(写真2)(“阿波木偶人形のしくみ”や“各種人形頭(かしら)の写真”などを展示)は、そのほとんどが田村さんの作品と監修によるものです。

 当館が人形浄瑠璃芝居に関する学習ビデオ教材を制作した際には、人形制作の実演も行っていただきました。ビデオカメラの前でも、いつもと同じように笑顔で、“技”の解説をしながら実際に頭を彫り、塗りを行ってくれました。1体の人形が完成するまで、数ヶ月にわたるビデオ取材に快く応じてくださいました。

(写真3)人形恒作「二人 三番叟」
 今、当館玄関ロビーに展示中の「二人 三番叟」(又平・三番叟)(写真3)は田村さんの作です。

 開館翌年に、当館の求めに応じて制作していただいたものです。「天狗久やデコ忠と一緒に収蔵されるんやけん、ええもん作らないかんわなぁ」と話されたことを、今も鮮明に思い出します。

 この1年間、私は電話で何度か田村さんとお話ししましたが、体調を崩されていることに全く気づきませんでした。ほんとうに突然の訃報でありました。

 数多のご恩・学恩に感謝の誠をささげるとともに、衷心からご冥福をお祈りいたします。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月18日金曜日

英会話に苦戦


 昨夕、ALT(アシスタント・ランゲージ・ティチャー)のランス先生が来館されました。ボランティアで「人形浄瑠璃」に関する英文パンフレットを作成されるのだそうです。

 ランス先生は日系人で日本暮らしも長いので、なかなか流ちょうな日本語を話されますが、いかんせん歴史の専門用語は難解です。「身分制度」「回船」「富裕層」「興行師」「縄張り」「小屋掛け」「手打ち興行」「売り興行」……。

 専門用語を説明するようになると、私も片言の英語でがんばりますが、悪戦苦闘です。それでも何とか取材は終了。ランス先生は納得して帰られました。

 が、果たして私の英語は通じたのでしょうか? できあがったパンフレットを見て冷や汗が出ないか、今から心配です。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月17日木曜日

研究者の「縁は異なもの」(3)

  
 今日も東京のK先生(早稲田大学准教授)が来館されました。

 土曜日・日曜日に来館され、日曜の夕方に東京に帰られたのに、またも当館で浄瑠璃本調査です。

 1週間に松茂・東京間を2往復されています。本当に「フットワークが軽いなぁ」と感心します。

 聞けば、一昨年はアメリカ合衆国ボストンの図書館に、昨年はワシントンDCの図書館に浄瑠璃本調査に行ったそうです。今年もカリフォルニア州バークレーの大学図書館に行くそうです。

 いやはや、浄瑠璃本を求めて世界中だから、1週間に松茂・東京2往復など、“朝飯前”というところでしょうか。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月13日日曜日

三木ガーデン歴史資料館(北島町)で資料調査

三木ガーデン歴史資料館
 今日の午前中、資料調査のため北島町の「三木ガーデン歴史資料館」(写真)を訪ねました。

 この資料館は、造園業を営んでいた三木安平氏が設立した私立の歴史資料館で、館名は同氏の事業にちなんでいます。研究者向けの専門館で、原則、一般公開はしていません。見学・資料閲覧には、事前予約が必要です。

 私は十数年来、折々に足を運んでいますが、訪ねるたび、また資料を見せていただくたびに、三木氏の歴史資料への情熱に感心しています。とにかくあらゆる時代・分野の資料を、幅広く収集されているのです。

 私は、今日、近代の下板地方(松茂町・北島町と徳島市川内町)の社会体育に関する資料を見せていただきました。庶民の暮らしに密着した興味深い資料です。

 この調査成果は、『広報まつしげ』10月1日号に掲載します(もちろん、このブログにもUPします)。お楽しみに!

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月12日土曜日

研究者の「縁は異なもの」(2)


 今日の午後、次代を担う浄瑠璃本研究者・K先生が来館されました(先週日曜日に来館されたK先生とは別人です)。

 私が「古文書講座(座学コース)」を指導している間、当館収蔵庫で浄瑠璃本(中西仁智雄コレクション)の調査をされ、緻密な書誌データを作成されました。私は浄瑠璃本が専門ではないので、とてもうれしいです。感謝しています。

 K先生は現在、早稲田大学の准教授ですが、奉職前の下積み時代には東京を離れ、当館で半年間、臨時職員(資料調査員)をしてくださいました。今も昔も、人形浄瑠璃研究のためなら全国どこへでも足を運ぶ、フットワークの軽い「博士」です。

(主任学芸員 松下師一)

「古文書講座」再開


 8月中、休講していた「古文書講座」を今日から再開しました。1日2講座(午前1講座、午後1講座)を、2週に1回のペースで、年間20回開講します。

 午前中がゼミナール形式の「輪読コース」で、受講生8名が交代で受け持ち箇所を解読します。中級者~上級者向けです。

 今は、明治30年代の住吉新田に関する古文書(『跡書帳』)を読んでおり、読了までには、まだまだ日数がかかりそうです。

 午後は「座学コース」(写真)で、私が解読文を板書しながら解説をします。初心者~中級者向けコースで、11名が受講しています。

 今日から、近世後期の身分規制に関する徳島藩の「御触れ」を読んでいます。今日(初回)が服装規制に関する条項で、次回が博打禁止に関する条項、その次が旅行(四国遍路)規制に関する条項、最後が他国産品の購入規制に関する条項です。

「古文書講座」座学(2009年9月12日)

 受講生の皆さんは熱心で、時になかなか鋭い質問があります。講師としては、瞬時に古文書を読み解く力が求められます。

 自分の解読力・分析力を維持するためにも、古文書講座は永く継続して開講したいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月11日金曜日

今、取り組んでいる研究(1)

上村源之丞家文書(近代)
 昨年(2008年)の1月から、淡路人形浄瑠璃資料館(南あわじ市)寄託の引田家文書の調査・研究をしています。

 引田家は、徳島藩一の人形浄瑠璃一座・上村源之丞座のオーナー家で、近世・近代の資料が相当程度残っています。私はそれら資料の中から、近代文書(写真)に絞って調査・研究することにしました。

 調べてみると、上村源之丞座の資産形成や投資、淡路島外(大阪・神戸・徳島)での劇場経営など、なかなか興味深い史実がわかってきました。すでに昨年度(2008年度)の徳島地方史研究会「公開研究大会」や、今年6月の鳴門史学会「月例会」で中間報告したところです。

 今は、徳島地方史研究会40周年記念論集『阿波・歴史と民衆 Ⅳ』への投稿を目指して、論文(試論)を執筆中です。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月6日日曜日

研究者の「縁は異なもの」(1)

 
 日曜日(9月6日)の午前中、お茶の水女子大学のK先生が来館されました。

 K先生は近世演劇史研究の第一人者で、大塚国際美術館で上演される「システィーナ歌舞伎」を観劇する前に、ちょっと立ち寄ってくれました。史料や研究について意見交換し、中西仁智雄コレクションの浄瑠璃本をご覧になって鳴門へ移動されました。

 久々にお会いしましたが、相変わらずエネルギッシュでなによりでした。

 さて、近世演劇史研究者のK先生が当館を訪ねるのは、ごく当たり前のようでありますが、実は「縁は異なもの」で、ちょっとしたエピソードがあります。

 今から8年前の2001年に、当館の資料整理のアルバイトをお願いしたIさんという女性がおりました。彼女は九州の出身でしたが、海上自衛官の夫とともに徳島に転居していたわけです。このIさん、学生時代に近代史を専攻された本格派で、結婚までは福岡市立博物館や松本清張記念館で仕事をされていました。当館では、佐藤和之家文書の整理を担当し、同『目録』を仕上げてくれました。

 そんなIさんがある日、「高校時代の同級生が人形浄瑠璃の研究をしているので、当館に調査に来るよう声をかけてもよいか?」と問うので、「もちろんOK」と答えました。

 「縁は異なもの」、その同級生がK先生でした。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月5日土曜日

展示解説について思う

   
 今日(9月5日)の午後、大阪府能勢町の「浄るりシアター」御一行が来館されました。鹿角座(ろっかくざ)の揃いのTシャツが格好よかったです。

 30分の約束で展示解説(主に人形浄瑠璃の展示について)を始めたのですが、なかなか熱心な方が多くて、あれこれ質疑応答などしているうちに、結局、1時間もかかってしまいました。幹事さんは時計を気にされており、申し訳なかったです。

 展示解説は資料を目前にした「ミニ講演会」で、私(学芸員)にとって大切な教育普及活動の一つですが、とかく時間を超過しがちです。今後は、「要領よく、簡潔に!」したいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年9月3日木曜日

阿波銀ホールで講演

    
 (財)阿波人形浄瑠璃振興会からの依頼で、とある女性団体の全国大会で短い(30分)講演をしました。演題は「阿波の歴史と人形浄瑠璃芝居」です。

 会場の阿波銀ホール(徳島県郷土文化会館)大ホールは、全国から参加した会員で満席で、通路に立ち見がでるほどでした。聞けば、「900人余」とのこと。こんなに大勢の前で講演するのは初めてなので、最初は少し緊張しましたが、しばらくすると調子が出てきました。

 さすがに900人余では、プリントを印刷するのも、それを配るのも大変なので、代わりにプロジェクターでパソコン画像を映すことにしました(ただ私は、未だにパワーポイントの使い方がわからないので、HTMLで簡単なホームページを作り、それを上映して講演の資料にしました)。

 講演の内容は、(1)近世阿波の諸産業(藍・塩・材木)の隆盛、(2)人形浄瑠璃芝居の発展と普及、(3)明治維新後の繁栄と衰退、(4)現代の伝承への取り組み、といったところです。県外からご参加の大勢の皆さんが、徳島の歴史と文化を少しでも知ってもらえたら(あわせて「松茂町」の名を知ってもらえたら)、私の講演も成功であったと思います。

 なお、私の講演に引き続いて、松茂町の人形浄瑠璃ふれあい座の芝居公演「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」がありました。公演終了後のカーテンコールでは、(さすが満席!)すごい拍手で、関係者一同気分を良くした一日でした。


(主任学芸員 松下師一)
 

2009年9月1日火曜日

QAシリーズ5 真水を求めて!(下)

― 時代よりも早すぎた松尾源右衛門の提言 ―

Q.(質問の要旨)江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。
(地方公務員・女性)


A.(前回の要旨)江戸時代、旧吉野川・今切川下流域の農村では、”塩害“がたびたびが発生しました。人々は上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねました。宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰も、そうした取り組みの一つで、本流の水を旧吉野川・今切川へ流し、水量を増やすための利水施設でした。

*         *         *

<前回の続き>
(写真1)松尾源右衛門の提言が記された古文書

 第十堰の完成から40年たった寛政4年(1792年)の春、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野)の庄屋・松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「(旧)吉野川付け替え工事」を提起しました。今に遺る古文書(写真1)から、その内容を紹介しましょう。


  1. 第十堰が完成したことによって吉野川の流れが遅くなり、堰の上流に土砂が堆積するようになった。

  2. そのため、堰のすぐ上流から北へ分派する旧吉野川の川底が浅くなり、水量が大幅に減ってしまった。

  3. 川底を浚渫(土砂を取り除くこと)するよりも、思い切って旧吉野川を付け替えて、第十堰の2キロメートル上流から分派するようにしたら、堆積土砂の影響を受けずにスムーズに水が旧吉野川へ流れるだろう。むしろ、堰上流に土砂が堆積し、本流の流れが悪くなれば、付け替えた旧吉野川がバイパス水路になり、水量は増えるに違いない。


 実にスケールの大きい提案です。また、その分析は実に正しく、明治17年(1884年)に明治政府の要請で吉野川を視察し、その治水計画を策定したオランダ人技術者、ヨハネス・デ・レーケも全く同じ指摘を行っています。

 しかし、残念ながら松尾源右衛門の提言は、江戸時代・200年余り昔の技術力・資金力では実現しませんでした。「時代よりも早すぎた提言」だったのです。

(写真2)第十堰付近の吉野川/赤い矢印の範囲が付け替えられた旧吉野川
 明治40年(1907年)、明治政府は国直轄の一大事業として吉野川の治水工事に取りかかります。この時、第十堰上流の旧吉野川付け替え工事も実施され、源右衛門の提言が現実の運びとなったのです。提言から135年後、デ・レーケの指摘から43年後、着工から20年後の昭和2年(1927年)、付け替えられた旧吉野川(写真2/赤い矢印の範囲)は無事竣工しました。


※『広報まつしげ』No.237
(2009年9月)掲載。

2009年8月30日日曜日

徳島地方史研究会8月例会


 昨夜、徳島地方史研究会の8月例会があり、しばらくぶりに参加しました。ここ2回、諸事情で欠席したため、久々の例会参加です。

 報告は次の2本で、いずれも丹念な史料収集から新しい知見を示した労作でした。
  • 小橋 靖「塩田面積や塩生産高等からみた徳島県の塩業」

  • 高田恵二「吉野川下流域の農業と河川工事」
 昨夜の研究会でよかったのは、両報告終了後に、報告相互の接点を踏まえた討議ができたことです。要するに、「なぜ塩田は撫養(現・鳴門市域)と新町川河口(現・徳島市域)・打樋川河口(現・阿南市域)に作られて、(旧)吉野川河口には無かったのか。」という疑問ですね。

 討議の中で、何か確固たる答えが出たわけではありません。ただ、松茂の歴史を考えたとき、この疑問は大きな「宿題」であると思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月26日水曜日

『松茂町誌』編纂中!


 平成23年(2011)夏の町制施行50周年を目途として、『松茂町誌』続編第3巻(平成11年度~20年度)の編纂を行っています。「町誌編さん室」(編纂事務局)は松茂町歴史民俗資料館に併設されており、私は「産業」「社会」「福祉」分野の執筆と、全巻の編集・レイアウトを担当しています。

 今日(8月26日)の午後、事務局4名でミィーティングを行いました。作業の進捗状況の確認と、今後のスケジュールの申し合わせです。やや遅れ気味なので、全員で気合いを入れ直しました。

 今年の秋も、何かと忙しくなりそうです。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月24日月曜日

二十三夜(二上り音頭とまわり踊り)

二上り音頭とまわり踊り(町指定無形民俗文化財)
 昨日、東かがわ市の講演から帰ると、その足で松茂町中喜来の呑海寺(臨済宗)へ出かけました。

 毎年8月23日に行われる地域行事「二十三夜」の中で、二上り音頭とまわり踊り(町指定無形民俗文化財)が披露されるのです。記録映像(ビデオ)の撮影です。

 暗いこともあり、うまく撮れたかどうか不安ですが、全7曲のうち5曲(前半1曲、後半4曲)の音頭と踊りを撮影しました。

 前半には少なかった喜来小の児童も、後半の踊りには大勢が参加していました。

 途中、何度か雨が“ポツリ、ポツリ”と落ちたのですが、本格的に降り出すことなく、無事にすべての予定が終わりました。よかったです。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月23日日曜日

東かがわ市で「阿波の古文書」講演

古川家文書(阿波郡土成村)を解説
 今日(8月23日)の午後、香川県東かがわ市の「東かがわ市歴史民俗資料館友の会」の招きで、同市引田公民館を会場に、「阿波の古文書」について講演してきました。

 半年ほど前に、同資料館の萩野学芸員から、「阿波郡土成村(現在の徳島県阿波市)の古文書を収蔵したので、阿波の古文書の学習をしたい。」との相談を受け、お引き受けしたものです。

 東かがわ市は、松茂町の「隣の隣」の自治体ですが、やはり県が違い、江戸時代の藩も違いますから、地域史研究にあたっても、あらゆる面で違いがあります。

 講演中、随時、実際の古文書を見ながら、「検地帳と棟附帳」を主テーマに、近世阿波の地域史や文書様式の話をしてきました。20名ほどの参加者はたいへん熱心で、次々と質問が出て、予定時間を超過しての“熱気あふれる会”でした。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月22日土曜日

共著『徳島県の歴史散歩』


 私も執筆に参加した『徳島県の歴史散歩』新版(写真)が、先月(7月)25日に刊行されました。

 私は松茂町のページをはじめ、徳島市川内町と板野郡北島町・藍住町のページを担当し、本文執筆と写真撮影などを行いました。

 できあがってみると、たった15ページですが、休日に担当地域内を自転車で走り回り、取材と撮影を行うなど、結構な時間と手間が必要でした。また、校正作業では、編集者からの質問に汲々とする事も多々ありました。

 それだけに完成した本を眺めると、「やれやれできたなあ~」という安堵感を覚えますが、他方では「もし間違っていたらどうしよう」という不安が脳裏をよぎります。他の執筆者の担当ページは読んでみたのですが、まだ自分の担当ページが読めていません。「そろそろ勇気を出して読まねば」と思っています。
  • 書名  『歴史散歩36 徳島県の歴史散歩』
  • 編者  徳島県の歴史散歩編集委員会
  • 発行  山川出版社
  • 販売  全国の書店で販売(定価1200円〔税別〕)
(主任学芸員 松下師一)

2009年8月21日金曜日

喜来小学校で「回り踊り」教室

喜来小学校で「回り踊り」教室
 今日(8月21日)は、松茂町立喜来(きらい)小学校の登校日でした。3年生・4年生の2時間目は、町指定無形文化財「回り踊り」教室の時間です。8月23日の「二十三夜」で、櫓の周囲で輪になって、「二上り音頭」に合わせて踊る「回り踊り」ですね。これを喜来小学校では、地域に伝わる“喜来の踊り”として学習し、9月中旬の運動会で発表しています。

 担任の先生方の他、地元「二上り音頭保存会」から7名の踊り手がゲストティチャーとして参加し、教室の始まりです(写真)

 昨年の経験がある4年生はスムーズに踊り始めましたが、今日がはじめての3年生は“ちんぷんかんぷん”で、なんとも練習になりません。そんな時、校長の杉村先生が、とまどう3年生の輪の中に、慣れた4年生を引き込んでいきます。さすがベテラン教師、さすが校長先生! お兄さん・お姉さんの踊りを見た3年生が、次々と見よう見まねで踊り始めました。

 教室(45分間)の終わり頃には、3年生も何となく格好になっていました。

 今後も練習は続きます。運動会の日には、きっと上手にできるでしょう。

 伝統芸能にとって“後継者難”が全国共通の課題ですが、地元小学校の地域学習と連携した「回り踊り」は、うまく後継者育成ができているように思います。きっと明後日の「二十三夜」にも、多くの小学生が踊り手として参加してくれることでしょう。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月19日水曜日

「二上り音頭」のビデオ撮影

   
 昨日(8月18日)の夜、松茂町中喜来の呑海寺(臨済宗)へ出かけました。当地に伝わる「二上り音頭」(町指定無形民俗文化財)の練習を取材し、あわせて音頭出し・三味線のビデオ映像を撮影しました。

 「二上り音頭」は、旧板野郡域に伝わる「浄瑠璃くずし」の一種で、太棹三味線に合わせて音頭出しが浄瑠璃の台詞(せりふ)を語ります。太棹三味線の「二の糸」を半音上げて演奏することから、こう呼ばれるようになりました。

 昨夜、撮影した外題は、「布引の滝」「義経千本桜」「朝顔日記」でした。8月23日夜の本番(「二十三夜」と呼ばれる)では、呑海寺の庭に組んだ櫓の上で音頭を出し、その周囲を踊り手たちが「回り踊り」をします。

 本番のようすも、ぜひビデオ撮影したいと考えています。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月16日日曜日

2009年度 博物館実習(3)

実習生の展示ワークショップ「天井絵から創る物語」
      
 たった5日間(8月11日~15日)の博物館実習でしたから、「あっ!」という間に終わってしまいました。4名の実習生さん、お疲れさまでした。

 「銅製の火鉢」は、聞き取り調査と文献調査をし、あと一歩まで調べましたが、残念ながら時間切れです。続きは、私がしたいと思います。

 ところで(写真)は、実習生が取り組んだ「ミニ展示」です。長岸荒神社 旧拝殿の天井絵45枚から、3枚1組の「物語」を2組創る「展示ワークショップ」です。 限られた日数の中で、なかなか難しい課題でした。

 それでも何とか、がんばって展示を仕上げてくれました。

 ちょっと楽しい構成なので、実証的な歴史の展示ではなく、創作を主とした美術の展示としてご鑑賞ください。なかなか愉快です。

 実習生4名には、資料調査・写真撮影・普及行事参加・ミニ展示立案・展示作業と、博物館の主要な仕事を一通り体験してもらいました。将来の進路で、この5日間の経験が役に立てば、とてもうれしく思います。


(主任学芸員 松下師一)

2009年8月13日木曜日

2009年度 博物館実習(2)

実習で撮影しした古文書

 博物館実習も3日目です。「銅製の火鉢」のルーツ探しと平行して、古文書の撮影や、ミニ展示の立案作業を実施しています。

 古文書の撮影では、デジタルカメラを前提とした、コピースタンドや照明灯の使用法の説明を行い、撮影からデータ管理までの一連の流れを実習しました。はじめてでしたが、なかなか上手く撮れました(写真)

 ミニ展示の立案作業では、平ケース2台を対象にした企画展示を実習生4名で実施することにし、今後、展示資料の選択や、解説パネル・キャプションの制作を実施することにしています。

 実習生のみなさんは、はじめての体験に緊張しながらも、撮影では「正確さ」を第一に、展示では「斬新な」着眼点で、誠実に実習に取り組んでくれています。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月11日火曜日

2009年度 博物館実習(1)

銅製の火鉢

 今日から5日間、博物館学芸員資格の取得を目指す大学生4名が、当館で「博物館実習」に取り組んでいます。


 午前中は、町誌編さん主任(前 松茂町教育長、元 館長)の笹田博之先生が、「現代教育の課題」と「博物館運営の実際」について、15年間の実践に基づいて講義をしました。


 午後からは私が担当し、町内の民家で見つかった「銅製の火鉢」(写真上)のルーツ探しを行いました。この火鉢には「贈 松茂村」の刻銘(写真下)があり、不思議に思った町民の方が資料館に連絡をくださったものです。

「贈 松茂村」

 この火鉢、松茂村役場から発見者の父親(あるいは祖父か?)に贈呈されたものらしいのですが、いったいどんな由緒があるのでしょうか。4名の学生たちと一緒に調べてみたいと思います。


(主任学芸員 松下師一)

2009年8月7日金曜日

QAシリーズ4 真水を求めて! (上)

現在の「第十堰」(南岸・石井町側から写す) ― ”塩害“とたたかった松茂の先人たち ―

Q.毎号、「路傍の歴史を訪ねて」を楽しみにしています。このところ連載の人物シリーズ、とてもおもしろいですね。先人の”生き様“に歴史の浪漫を感じます。

 そこでちょっと質問です。著名人では無いのですが、江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。

(地方公務員・女性)

  
A.ご愛読ありがとうございます。ご指摘の人物は、18世紀末の寛政年間に、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野地区)の庄屋(代表者)を務めた”松尾源右衛門“という人です。
  
 江戸時代、旧吉野川・今切川下流の農村(現在の松茂町や鳴門市大津町・徳島市川内町など)では、日照りが続くと川の水量が減り、海水が川に逆流してたびたび”塩害“(飲料水や農業用水に塩分が混じる災害)が発生しました。当時の土木技術では、海水の逆流を止める河口堰を築くことはできず、人々は遠く上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねていきました。
  
 宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰(上板町・石井町)は、そうした取り組みの一つで、本流の水を北(鳴門市・松茂町方面)へ流し、旧吉野川・今切川の水量を増やすための利水施設です。当時、松茂の人々は、はるか20キロメートル離れた工事現場に出かけ、第十堰完成のために必死で働きました。車や重機(ブルドーザー、クレーンなど)が無かった時代のことです。
  
 そうした経緯の中、寛政4年(1792年)春、笹木野村庄屋の松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「吉野川付け替え工事」を提起しました。

(つづく)

(右上の写真)現在の「第十堰」(南岸・石井町側から写す)

※ 『広報まつしげ』No.236(2009年8月)掲載。