2010年7月28日水曜日

QAシリーズ8 80年前にも『広報誌』があったの?

  
Q.こんにちは。毎月、『広報まつしげ』を読んで、家族団らんの話題にしています。いろんな町の情報、ありがとうございます。中でも「資料館だより」は、「へぇ~」と感心しながら読んでます。

 で、質問なのですが、大叔母(故人)と、生前、町についてのよもやま話をしたときに、「昔、松茂には偉い村長はんがおって、80年も前から『広報』ようなん出しとったんでよ。」と聞いたことがあるのですが、それは本当だったのでしょうか。本当ならどんな冊子だったのですか。ぜひ教えてください。


(団体職員・女性)

 


A.はい。大叔母さんの話は本当です。松茂では80年前(昭和初期)には既に、広報誌『松茂村報』が発行されていました。
広報誌『松茂村報』創刊号
 『松茂村報』は大正13年(1924年)3月に創刊され、昭和16年(1941年)9月に発行を終えるまで、通算137号が発行されました(号外を除く)。毎号、役場からのお知らせはもちろん、住民の動向や学校の行事などがこと細かに記されており、当時としては他町村に例を見ないほどに充実した内容でした。松茂は戦前から、住民への広報に先駆的に取り組んだ自治体であったのです。

 では、なぜ当時の松茂で、広報を充実させる必要があったのでしょうか。

 それは、松茂の誕生(いわゆる「明治の大合併」)の歴史と深い関わりがあります。

 明治22年(1889年)に10の「村(むら)」(江戸時代から続く農村)や「浦(うら)」(江戸時代から続く漁村)の合併により誕生した「松茂村(まつしげそん)」は、合併後も旧「村」「浦」の意識が強く残り、ことある毎に旧「村」「浦」間で利害が対立していました。今では想像もできませんが、とても同じ「松茂村」とは思えないほどの地域対立の状況が30年以上も続き、ついには大正8年(1919年)9月から同13年1月まで、村長が選出できない(なり手がいない)事態に陥ってしまったのです。

三木正三郎村長 そうした状況を改善するべく、同年同月、4年4か月ぶりに新村長に選出されたのが、実業家でアメリカ留学経験のある三木正三郎さんです。ご質問の中で、「偉い村長はん」と言われていた人物ですね。

 三木村長は、就任するとすぐに村民融和・旧「村」「浦」間融和の第一歩として、当時としては先進的で画期的な新事業を実施しました。それが大正13年3月、三木村長みずから執筆・編集した広報誌『松茂村報』の創刊です。

 第一号の巻頭には、「村民各位」と題して、三木村長が“村政への思い”“村民融和への願い”を書き記しています。その一部を紹介しましょう。  ※( )内は補注

*        *        *

三木正三郎「村民各位」(部分) 私は常に村治(村の行政)の大要を村民各位にお知らせして、御了解の下に村政を料理(執行)したいと思っています。……〈中略〉…… 本村は十か村の集合体ですから、村治上、各村に同様の満足を与へ得られないのは当然と存じます。したがって私は諸君が小異を捨てて大同につき、各々身を私(村長)の立場に置いて判断せられ、和衷協同(心と力を合わせて)、一村(松茂村全体)の幸福を増進することに努力せられんことを切望いたします。……

*        *        *

 三木村長は広報誌『松茂村報』を通じて行政の情報を公開し、リーダーとしての率直な考えを書き記しました。こうした地道な取り組みを重ねることが、村民の村政への不信や地域対立を解消し、ひいては村民相互の理解を進めることができると考えたのです。松茂の広報誌は、村長・役場と住民、また住民と住民を結ぶ役割を期待されて、80年以上も昔(86年4か月前)に誕生したのでした。

 

※『広報まつしげ』No.246・247(2010年6月号・7月号)掲載。

2010年7月27日火曜日

「大松遺跡」の余話

 
 7月18日の「大松遺跡」現地説明会の途中、ふと、北西方向に茂みがあるのに気づきました。

 何だか、曰くありげな茂みです。



 近づいてみると墓地で、石造の立派な「近藤家墓所」の標柱もあります。



 古くなってちょっと痛んでいましたが、「近藤家墓所」の解説板もあります。



 江戸時代に大松村の庄屋を努め、井組(近世後期の第十堰の水利組合)の要職も努めた近藤家歴代の墓所とのこと。なるほど、県立文書館に近世文書が納められている中財家も、庄屋・近藤家の系譜であったのかと、しばし感心しました。

 でも、何より驚いたのは、下記写真の石版です(撮影の都合上、かなり斜めになっています)。近代の近藤家から台湾の製糖事業で活躍した偉人が出たことも初見で驚きましたが、なによりその妻が松茂町長原の人であったことに驚きました。いやぁ~、まだまだ知らないことが多いですなぁ。



 マイカーで走ると速くて快適ですが、時には自転車でゆっくり出かけるのも、いろいろな出会いと発見がありますね。


(主任学芸員 松下師一)

2010年7月21日水曜日

「大松遺跡」現地説明会(下)

 
 たまたま参加した「大松遺跡」現地説明会(2010年7月18日)レポートの後編です。



 いわゆる「貝塚」から出土した貝殻や魚の骨類です。後日、資料館でこの話をすると、「なんで昔の人は貝ばかり食べてたの?」と質問されましたが、要するに生ゴミ捨て場で、貝殻や骨だけが数100年間も残ったということですね。



 ちょと気になった牛の骨です。遺跡内の水路跡から発見されたそうですが、中世の人々が牛肉を食べていたのではないそうです(解体時に骨に付くはずの傷がない)。やはり農耕用の牛が亡くなったので、死骸を水路に捨てたと理解すべきでしょう。



 微笑ましい出土品もありました。「泥面子」など、子どものおもちゃです。江戸時代のものとのことですが、私たちが知る紙の面子と違って、的当ゲームとして遊んだそうです。



 上の写真は、出土状況を撮影した4枚の写真を掲示している様子です。左上が貝塚、左下が牛骨、右上と右下が「貼石(はりいし)」と呼ばれる遺構の様子です。

 ちなみに、プレハブの外に出ると、「あれっ? 松下さんで~。見に来てくれたの?」と、業界の知り合いに次々と声をかけられました。たまたま立ち寄っただけなのに……、自分で思っている以上に顔が売れているようです。



 この説明会の前日に徳島は「梅雨明け」しており、真夏の青空の下、たくさんの人が説明に聞き入っていました。この後、遺構の見学がありましたが、残念ながらサイクリングの途中で約束の時間が迫っていたので、やむなく中座して次へ移動しました。

 松茂町内もほぼ同様ですが、川内町大松といった「ゼロメートル地帯」に、なぜ中世遺跡があるのか。どんな生業であったのか。説明の途中、何度か「農業に不向きな萱野が広がる低地」というコメントがあったので、それが不思議に思われます。

 すぐ近くに大松の氏神である「塩竃神社(しおがまじんじゃ)」がありますから、その辺に推測のヒントがあるのかも知れません。


(主任学芸員 松下師一)

2010年7月19日月曜日

「大松遺跡」現地説明会(上)

 
 以前から気になっていたのですが、松茂町の南隣・徳島市川内町の県道川内大代線沿いに、「大松遺跡」の発掘現場があります。

 7月18日(日)の朝、自転車で川内大代線を走っていると、辻々に「現地説明会」と記されたプラカードを持った人が立っていました。思い切って声をかけると、「10時から説明会が始まるから、それまで現場事務所内に展示された出土遺物を見学してもよい」とのこと。さっそく自転車を停めて、プレハブ事務所に入っていました。



 プレハブ内、普段は発掘作業員さんの休憩スペースか何かなのでしょうが、今日だけは綺麗に出土異物の展示ができています。



 「ふむふむ」と見ていると、専門員さんが丁寧に説明をしてくださいました(休日のサイクリング中なので、松茂町歴史民俗資料館の学芸員とは名乗りませんでした)。播磨(現・兵庫県)産の焼物や、備前焼(岡山県産)の陶器、大陸製の陶磁器、さらには金属製品が出土していることをお教えくださいました。「写真撮影OK!」ということなので、ちょっと紹介してみます。



 下の写真は、大陸性の陶磁器の破片です。



 金属製品ですが、古銭は別として、金属の固まりが出土したことから、単に運ばれてきた物ではなくて、この地で加工をしていたようです。



 職場に案内は来ていたとは思いますが、まったくの偶然で出くわした「現地説明会」に、なかなか興味津々です。(続く)


(主任学芸員 松下師一)

2010年7月17日土曜日

「発見!ふるさとの伝統文化」(1)

 
 続けざまに更新しています。

 ちょっと前(7月4日)の話ですが、県教育委員会主催の「発見!ふるさとの伝統文化」の開講式で、町指定無形民俗文化財「二上り音頭」の紹介をしてきました。

 7つもの無形民俗文化財保存団体がプレゼンをしたのですが、私の話より前に登場した4団体は、いずれも実演でびっくりしました。



 上の写真は、船津太刀踊保存会(海陽町〔旧・宍喰町〕)の実演です。



 これは中山盆神踊保存会(那賀町〔旧・鷲敷町〕)が実演している写真です。



 そして、二上り音頭保存会(松茂町)の時間では、私がスライドとビデオを利用して、その歴史と昨年の練習・実演の様子を紹介しました。

 実演無しだったので、ちょっと心配でしたが、受講生の反応は結構よかったと思います。8月29日(日)のCコース第6回講座で、今度こそ実演がありますから、受講のみなさん楽しみにしていてください。


(主任学芸員 松下師一)

ひさびさ更新&人形芝居公演&中学生の練習参加


 しばらく更新が滞っておりました。連日、『松茂町誌』の原稿執筆と、編集作業に追われていたためです。他にも、複数の依頼原稿を抱え、四苦八苦しておりました。

 で、今日は午後から、しばし原稿執筆の手を休めて、イベントの手伝いをしておりました。3か月ぶりに開催した人形浄瑠璃芝居の「定期公演」です(5月・6月は休演でした)。

 おなじみ、ふれあい座による「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」でしたが、近所の福祉施設の方々にご観劇いただき、たいへん喜んでいただきました。最前列で涙している方もあり、「よかった。」とのことでした。芝居を観て、幼いころの情景などが回想されたのだろうと思います。

 また、公演終了後は、中学生2名を交えて人形浄瑠璃芝居の練習をしました。熱心な中学生の取り組みに、指導したふれあい座のベテランたちも喜んでいました。


  
 写真を撮りましたが、手前のガラスに外の風景が映り込んで、よくわからない写真になってしまいました。とほほ…。

(主任学芸員 松下師一)