2009年8月30日日曜日

徳島地方史研究会8月例会


 昨夜、徳島地方史研究会の8月例会があり、しばらくぶりに参加しました。ここ2回、諸事情で欠席したため、久々の例会参加です。

 報告は次の2本で、いずれも丹念な史料収集から新しい知見を示した労作でした。
  • 小橋 靖「塩田面積や塩生産高等からみた徳島県の塩業」

  • 高田恵二「吉野川下流域の農業と河川工事」
 昨夜の研究会でよかったのは、両報告終了後に、報告相互の接点を踏まえた討議ができたことです。要するに、「なぜ塩田は撫養(現・鳴門市域)と新町川河口(現・徳島市域)・打樋川河口(現・阿南市域)に作られて、(旧)吉野川河口には無かったのか。」という疑問ですね。

 討議の中で、何か確固たる答えが出たわけではありません。ただ、松茂の歴史を考えたとき、この疑問は大きな「宿題」であると思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月26日水曜日

『松茂町誌』編纂中!


 平成23年(2011)夏の町制施行50周年を目途として、『松茂町誌』続編第3巻(平成11年度~20年度)の編纂を行っています。「町誌編さん室」(編纂事務局)は松茂町歴史民俗資料館に併設されており、私は「産業」「社会」「福祉」分野の執筆と、全巻の編集・レイアウトを担当しています。

 今日(8月26日)の午後、事務局4名でミィーティングを行いました。作業の進捗状況の確認と、今後のスケジュールの申し合わせです。やや遅れ気味なので、全員で気合いを入れ直しました。

 今年の秋も、何かと忙しくなりそうです。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月24日月曜日

二十三夜(二上り音頭とまわり踊り)

二上り音頭とまわり踊り(町指定無形民俗文化財)
 昨日、東かがわ市の講演から帰ると、その足で松茂町中喜来の呑海寺(臨済宗)へ出かけました。

 毎年8月23日に行われる地域行事「二十三夜」の中で、二上り音頭とまわり踊り(町指定無形民俗文化財)が披露されるのです。記録映像(ビデオ)の撮影です。

 暗いこともあり、うまく撮れたかどうか不安ですが、全7曲のうち5曲(前半1曲、後半4曲)の音頭と踊りを撮影しました。

 前半には少なかった喜来小の児童も、後半の踊りには大勢が参加していました。

 途中、何度か雨が“ポツリ、ポツリ”と落ちたのですが、本格的に降り出すことなく、無事にすべての予定が終わりました。よかったです。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月23日日曜日

東かがわ市で「阿波の古文書」講演

古川家文書(阿波郡土成村)を解説
 今日(8月23日)の午後、香川県東かがわ市の「東かがわ市歴史民俗資料館友の会」の招きで、同市引田公民館を会場に、「阿波の古文書」について講演してきました。

 半年ほど前に、同資料館の萩野学芸員から、「阿波郡土成村(現在の徳島県阿波市)の古文書を収蔵したので、阿波の古文書の学習をしたい。」との相談を受け、お引き受けしたものです。

 東かがわ市は、松茂町の「隣の隣」の自治体ですが、やはり県が違い、江戸時代の藩も違いますから、地域史研究にあたっても、あらゆる面で違いがあります。

 講演中、随時、実際の古文書を見ながら、「検地帳と棟附帳」を主テーマに、近世阿波の地域史や文書様式の話をしてきました。20名ほどの参加者はたいへん熱心で、次々と質問が出て、予定時間を超過しての“熱気あふれる会”でした。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月22日土曜日

共著『徳島県の歴史散歩』


 私も執筆に参加した『徳島県の歴史散歩』新版(写真)が、先月(7月)25日に刊行されました。

 私は松茂町のページをはじめ、徳島市川内町と板野郡北島町・藍住町のページを担当し、本文執筆と写真撮影などを行いました。

 できあがってみると、たった15ページですが、休日に担当地域内を自転車で走り回り、取材と撮影を行うなど、結構な時間と手間が必要でした。また、校正作業では、編集者からの質問に汲々とする事も多々ありました。

 それだけに完成した本を眺めると、「やれやれできたなあ~」という安堵感を覚えますが、他方では「もし間違っていたらどうしよう」という不安が脳裏をよぎります。他の執筆者の担当ページは読んでみたのですが、まだ自分の担当ページが読めていません。「そろそろ勇気を出して読まねば」と思っています。
  • 書名  『歴史散歩36 徳島県の歴史散歩』
  • 編者  徳島県の歴史散歩編集委員会
  • 発行  山川出版社
  • 販売  全国の書店で販売(定価1200円〔税別〕)
(主任学芸員 松下師一)

2009年8月21日金曜日

喜来小学校で「回り踊り」教室

喜来小学校で「回り踊り」教室
 今日(8月21日)は、松茂町立喜来(きらい)小学校の登校日でした。3年生・4年生の2時間目は、町指定無形文化財「回り踊り」教室の時間です。8月23日の「二十三夜」で、櫓の周囲で輪になって、「二上り音頭」に合わせて踊る「回り踊り」ですね。これを喜来小学校では、地域に伝わる“喜来の踊り”として学習し、9月中旬の運動会で発表しています。

 担任の先生方の他、地元「二上り音頭保存会」から7名の踊り手がゲストティチャーとして参加し、教室の始まりです(写真)

 昨年の経験がある4年生はスムーズに踊り始めましたが、今日がはじめての3年生は“ちんぷんかんぷん”で、なんとも練習になりません。そんな時、校長の杉村先生が、とまどう3年生の輪の中に、慣れた4年生を引き込んでいきます。さすがベテラン教師、さすが校長先生! お兄さん・お姉さんの踊りを見た3年生が、次々と見よう見まねで踊り始めました。

 教室(45分間)の終わり頃には、3年生も何となく格好になっていました。

 今後も練習は続きます。運動会の日には、きっと上手にできるでしょう。

 伝統芸能にとって“後継者難”が全国共通の課題ですが、地元小学校の地域学習と連携した「回り踊り」は、うまく後継者育成ができているように思います。きっと明後日の「二十三夜」にも、多くの小学生が踊り手として参加してくれることでしょう。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月19日水曜日

「二上り音頭」のビデオ撮影

   
 昨日(8月18日)の夜、松茂町中喜来の呑海寺(臨済宗)へ出かけました。当地に伝わる「二上り音頭」(町指定無形民俗文化財)の練習を取材し、あわせて音頭出し・三味線のビデオ映像を撮影しました。

 「二上り音頭」は、旧板野郡域に伝わる「浄瑠璃くずし」の一種で、太棹三味線に合わせて音頭出しが浄瑠璃の台詞(せりふ)を語ります。太棹三味線の「二の糸」を半音上げて演奏することから、こう呼ばれるようになりました。

 昨夜、撮影した外題は、「布引の滝」「義経千本桜」「朝顔日記」でした。8月23日夜の本番(「二十三夜」と呼ばれる)では、呑海寺の庭に組んだ櫓の上で音頭を出し、その周囲を踊り手たちが「回り踊り」をします。

 本番のようすも、ぜひビデオ撮影したいと考えています。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月16日日曜日

2009年度 博物館実習(3)

実習生の展示ワークショップ「天井絵から創る物語」
      
 たった5日間(8月11日~15日)の博物館実習でしたから、「あっ!」という間に終わってしまいました。4名の実習生さん、お疲れさまでした。

 「銅製の火鉢」は、聞き取り調査と文献調査をし、あと一歩まで調べましたが、残念ながら時間切れです。続きは、私がしたいと思います。

 ところで(写真)は、実習生が取り組んだ「ミニ展示」です。長岸荒神社 旧拝殿の天井絵45枚から、3枚1組の「物語」を2組創る「展示ワークショップ」です。 限られた日数の中で、なかなか難しい課題でした。

 それでも何とか、がんばって展示を仕上げてくれました。

 ちょっと楽しい構成なので、実証的な歴史の展示ではなく、創作を主とした美術の展示としてご鑑賞ください。なかなか愉快です。

 実習生4名には、資料調査・写真撮影・普及行事参加・ミニ展示立案・展示作業と、博物館の主要な仕事を一通り体験してもらいました。将来の進路で、この5日間の経験が役に立てば、とてもうれしく思います。


(主任学芸員 松下師一)

2009年8月13日木曜日

2009年度 博物館実習(2)

実習で撮影しした古文書

 博物館実習も3日目です。「銅製の火鉢」のルーツ探しと平行して、古文書の撮影や、ミニ展示の立案作業を実施しています。

 古文書の撮影では、デジタルカメラを前提とした、コピースタンドや照明灯の使用法の説明を行い、撮影からデータ管理までの一連の流れを実習しました。はじめてでしたが、なかなか上手く撮れました(写真)

 ミニ展示の立案作業では、平ケース2台を対象にした企画展示を実習生4名で実施することにし、今後、展示資料の選択や、解説パネル・キャプションの制作を実施することにしています。

 実習生のみなさんは、はじめての体験に緊張しながらも、撮影では「正確さ」を第一に、展示では「斬新な」着眼点で、誠実に実習に取り組んでくれています。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月11日火曜日

2009年度 博物館実習(1)

銅製の火鉢

 今日から5日間、博物館学芸員資格の取得を目指す大学生4名が、当館で「博物館実習」に取り組んでいます。


 午前中は、町誌編さん主任(前 松茂町教育長、元 館長)の笹田博之先生が、「現代教育の課題」と「博物館運営の実際」について、15年間の実践に基づいて講義をしました。


 午後からは私が担当し、町内の民家で見つかった「銅製の火鉢」(写真上)のルーツ探しを行いました。この火鉢には「贈 松茂村」の刻銘(写真下)があり、不思議に思った町民の方が資料館に連絡をくださったものです。

「贈 松茂村」

 この火鉢、松茂村役場から発見者の父親(あるいは祖父か?)に贈呈されたものらしいのですが、いったいどんな由緒があるのでしょうか。4名の学生たちと一緒に調べてみたいと思います。


(主任学芸員 松下師一)

2009年8月7日金曜日

QAシリーズ4 真水を求めて! (上)

現在の「第十堰」(南岸・石井町側から写す) ― ”塩害“とたたかった松茂の先人たち ―

Q.毎号、「路傍の歴史を訪ねて」を楽しみにしています。このところ連載の人物シリーズ、とてもおもしろいですね。先人の”生き様“に歴史の浪漫を感じます。

 そこでちょっと質問です。著名人では無いのですが、江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。

(地方公務員・女性)

  
A.ご愛読ありがとうございます。ご指摘の人物は、18世紀末の寛政年間に、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野地区)の庄屋(代表者)を務めた”松尾源右衛門“という人です。
  
 江戸時代、旧吉野川・今切川下流の農村(現在の松茂町や鳴門市大津町・徳島市川内町など)では、日照りが続くと川の水量が減り、海水が川に逆流してたびたび”塩害“(飲料水や農業用水に塩分が混じる災害)が発生しました。当時の土木技術では、海水の逆流を止める河口堰を築くことはできず、人々は遠く上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねていきました。
  
 宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰(上板町・石井町)は、そうした取り組みの一つで、本流の水を北(鳴門市・松茂町方面)へ流し、旧吉野川・今切川の水量を増やすための利水施設です。当時、松茂の人々は、はるか20キロメートル離れた工事現場に出かけ、第十堰完成のために必死で働きました。車や重機(ブルドーザー、クレーンなど)が無かった時代のことです。
  
 そうした経緯の中、寛政4年(1792年)春、笹木野村庄屋の松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「吉野川付け替え工事」を提起しました。

(つづく)

(右上の写真)現在の「第十堰」(南岸・石井町側から写す)

※ 『広報まつしげ』No.236(2009年8月)掲載。

2009年8月6日木曜日

QAシリーズ3 放浪の連歌師・宗祇と月見ヶ丘海岸

現在の「月見ヶ丘海岸」
 
Q.前々号・前号の土御門上皇の生涯、たいへん興味深く読み、いい勉強になりました。
  
 せっかくなので、月見ヶ丘海岸で「足る事を 知れば茶で済む 月見かな」と詠んだ飯尾宗祇についても教えてくれませんか。松茂ゆかりの偉人に、たいへん興味があります。

(元教員・男性)
  

A.飯尾宗祇(1421年生~1502年没)は、連歌(短歌の前半と後半を別人が詠む文学)の名手として歴史に名を残していますが、その生い立ちははっきりしません。一般に紀伊国(現在の和歌山県)出身と言われていますが、近江国(現在の滋賀県)出身とする説も有力です。また、学会での評価は低いですが、阿波国飯尾村(現在の吉野川市)出身という説もあります。
  
 宗祇が世に知られるようになったのは、京都の相国寺(臨済宗、京都五山のひとつ)で修行をしていた青年時代からです。20歳代で連歌をはじめるとともに、古典文学や和歌を精力的に学び、その才能を開花させました。また、関東や越後(現在の新潟県)・山口など諸国を遍歴しては、連歌師としての感性を磨きました。文明8年(1476)には室町幕府九代将軍足利義尚の連歌の師となり、長享2年(1488)には連歌師の頂点である北野連歌会所奉行となりました。著書に『白河紀行』等、編書に『新撰菟玖波集』等があります。
  
 文亀2年(1502)、旅の途中の箱根(神奈川県)で亡くなり、駿河国(現在の静岡県)の定輪寺に葬られました。
  
 この宗祇が、いつ月見ヶ丘海岸にやって来たのかは、残念ながら定かではありません。ただ、その足跡を伝える句、…

足る事を 知れば茶で済む 月見かな

…が残るのみです。

(右上の写真)現在の「月見ヶ丘海岸」

※『広報まつしげ』N0.235(2009年7月号)掲載。

2009年8月4日火曜日

QAシリーズ2 月見ヶ丘の歌碑をめぐって(下)

― 土御門上皇・望郷の短歌 ―
  
Q.(質問の要旨) 松茂町の新名所・月見ヶ丘海浜公園にある「土御門上皇 歌碑」について、上皇の生涯や短歌の意味を教えてください。よろしくお願いします。
(会社員・男性)

      
A.(前回の要旨) 土御門上皇は後鳥羽天皇の第一皇子として、鎌倉時代はじめの建久6年(1195年)に、京都に生まれました。わずか満3歳で天皇に即位しましたが、政治的実権はあまりなく、短歌を詠む日々を送ったとも伝えられます。15歳で弟の順徳天皇に譲位して上皇になりましたが、「承久の乱」(承久3年・1221年)の後、みずから京都を去って土佐国(現在の高知県)へ引っ越しました。
  
<前回のつづき>
  
 貞応2年(1223年)5月、土御門上皇は理由あって土佐国から阿波国(現在の徳島県)へ再度引っ越し、寛喜3年(1231年)に36歳で他界するまで、その生涯を阿波国で過ごしました。
  
 土御門上皇の阿波国での足どりには諸説があり、行宮(屋敷)のあった場所としては、吉田(現在の阿波市土成町)・下庄(板野町)・勝瑞(藍住町)など、また葬儀が行われた場所としては、池谷・里浦(ともに鳴門市)などの説があります。ただ、いずれの説でも上皇ゆかりの地は、徳島県の北東部、松茂町からさほど遠くないところばかりです。
  
 明治時代の地理書『板野郡村誌』によると、土御門上皇は紀伊水道を臨む「月見か崎」という海岸に立って、次の短歌を詠んだそうです。

海原や 月さしのぼる末晴れて まちかくなりぬ 紀路の遠山
  
 「(暮れなずむ)海原(紀伊水道)に月が昇り、東の空が明るくなった。(思いがけず)間近に紀伊国(和歌山県)の山並みが見える」という意味です。明るい満月の光が、遙かに海を隔てた紀伊の風景をも身近に感じさせたのでしょう。この「月見か崎」こそ、今、海浜公園がある松茂町の月見ヶ丘海岸と考えられています。
  
 鎌倉時代の月見ヶ丘海岸は、旧吉野川・今切川河口に細長く突き出した無人の砂州でしたが、当時から月見の名所として知られていたようです。若くして四国へ退いた土御門上皇にしてみれば、月の美しさに感動するよりも、月明かりに映える本州の山影に望郷の念が募ったことでしょう。

(右上の写真)吉田潤二さん(松茂町広島)撮影「月見ヶ丘海浜公園の月と海」
(第5回松茂町ふるさと写真コンクール入選作品)
    
※『広報まつしげ』No.234(2009年6月号)掲載。

2009年8月3日月曜日

2009年度 阿波学会総合学術調査(その2)

   
 今日も、「阿波学会総合学術調査」に参加し、阿波市へ出かけて来ました。
  
 今日の調査内容は、江戸時代の阿波郡勝命村の古文書(検地帳・棟附帳)の現況確認と目録化です。
  
 戦後まもなく刊行された『久勝町史』に、天正時代の太閤検地帳の翻刻が掲載されており、その後の保存状態が気になるところでした。
  
 幸い、少々の痛みはありましたが、無事保存されていることを確認しました(写真)
  
 貴重な古文書との出会い、それが現地調査の醍醐味ですね。
  
(主任学芸員 松下師一)

2009年8月2日日曜日

2009年度 阿波学会総合学術調査(その1)


 徳島県では、毎年夏に文化系・理科系を問わず多数の学会が合同で、地域を決めて総合学術調査をしています。

 今年度の調査地域は、阿波市の「旧吉野町・旧阿波町」です。(写真)は、7月31日午前に、阿波市土成郷土館で開催された「結団式」のようすです。

 私も「地方史班」の一員として、この地域の古文書調査に取り組んでいます。

(主任学芸員 松下師一)

2009年8月1日土曜日

QAシリーズ1 月見ヶ丘の歌碑をめぐって(上)

― 土御門上皇の生涯 ―
  

Q.先日、孫を連れて松茂町の新名所・月見ヶ丘海浜公園に遊びに行きました。
  
 海を臨む丘を登ると、「土御門上皇 歌碑」(写真)があり、阿波国(徳島県)ゆかりの上皇にたいへん興味を引かれました。ぜひ、土御門上皇の生涯や、碑に記された短歌の意味をくわしく教えてください。よろしくお願いします。
 (会社員・男性)
  

A.土御門上皇は、後鳥羽天皇の第一皇子として、鎌倉時代はじめの建久6年(1195)に生まれました。この当時、発足間もない鎌倉幕府は、東日本の武士を中心とした権力で、いまだ西日本では、京都の天皇・公家による政治が一般的でした。
  
 建久9年(1198)1月には、父・後鳥羽天皇の退位に伴って、わずか満3歳で天皇になりましたが、政治の実権は上皇となった父(後鳥羽上皇)と、母方の祖父の源通親が握っていました。当時の歴代天皇は、京都・鎌倉の権力闘争の渦中にあり、政治的中立性を求められる皇位を不自由に思い、若くして退位しては「上皇」という自由な立場から権力闘争に関わっていきました。いわゆる「院政」です。そのため土御門天皇の在位期間も短く、わずか12年余り、15歳で弟の順徳天皇に譲位して上皇になりました。
  
 しかし、父・後鳥羽上皇が強大な実権を握る中で、土御門上皇の政治的立場は弱かったようです。一説には政治から距離を置き、短歌を詠む日々を送ったともいわれています。
  
 承久3年(1221)、「討幕」を掲げて後鳥羽上皇が挙兵した「承久の乱」の際にも、土御門上皇はそれに参画していませんでした。そのため、上皇の軍勢が鎌倉幕府軍に完敗した後、父・後鳥羽上皇は隠岐(島根県)へ流され、弟・順徳上皇は佐渡(新潟県)へ流されましたが、土御門上皇は幕府から何の罪にも問われませんでした。
  
 ところが土御門上皇は、これを潔しとせず、みずから京都を去って土佐国(高知県)へ引っ越してしまったのです。そして貞応2年(1223)5月、理由あって土佐国から阿波国へ再度引っ越し、寛喜3年(1231)に36歳で他界するまで、その生涯を阿波国で過ごしました。
(つづく)
  
※『広報まつしげ』No.233(2009年5月号)掲載。