2015年8月25日火曜日

博物館実習の様子(その3)


成果展「神社に隠れたどうぶつたち ~旧若宮神社の木鼻~ 」


博物館実習生が試行錯誤しながら行った「成果展示」の紹介をしたいと思います。
「成果展示」は、資料館常設展示室内にて行っておりますので、ぜひご覧ください。

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実習生は、この成果展を開催するにあたり「社寺彫刻の魅力を再発見する」をテーマに行いました。
展示した資料は、長原地区にあった旧若宮神社(長原字中須)の柱から突き出した部分に施された彫刻『木鼻』(きばな)の展示を行いました。

この『木鼻』の歴史は古く、鎌倉時代に俊乗坊重源という高僧が、中国から持ち帰った建築技法「貫」(ぬき)が採用されたころまで遡るそうです。

名前の由来は、もともと「木の先端」という意味の「木端」(きばな)が転じて「木鼻」に書き換えられたという説もあります。

展示中の木鼻
『木鼻』には、象・獅子・獏などの動物をモチーフにしたものや、渦紋や植物紋が施されたものがあるそうです。

展示する向きにも工夫が凝らされています。動物たちの造形が分かるように、向き合って並べられたものと、柱に施された姿を再現したものと二通りの方法で展示しています。

獅子をモチーフにした木鼻
 動物たちが解説してくれているキャプションも置かれ、子どもも楽しめる展示となっています。このアイディアには、私も勉強になりました。子どもから大人まで、楽しく学べる工夫のひとつだと思います。


     



ちなみに、現在の若宮神社は、社殿老朽化にともない昭和61年(1986)に改築されているため、残念ながら動物をモチーフにした『木鼻』を見ることはできませんでした。(実習中に、実習生と現地にも確認しに行きました。)

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今回の実習生成果展は、寺社の彫刻を取り上げることで、寺社彫刻の魅力に興味を持ってもらえるだけでなく、松茂町の歴史や文化を再発見することができる展示になったかと思います。

実習生のみなさん、お疲れ様でした。

(学芸員 菅野 将史)

博物館実習の様子(その2)


博物館実習2日目からは、特別企画「航空機写真展 ‐航空の歴史とともに‐ 」の展示替え作業を、常設展示室前展示コーナにて行いました。

大学の授業で展示作業を行ったことがある実習生ですが、実際の現場での展示替えは苦労の連続だったようです。

額に入った写真資料を、お客様の見やすい高さに調整することや、水平に展示する作業は思っていた以上に難しかったようで、実習生同士協力し合って作業を行っていました。
 
資料の高さを調整する作業

なお、今回のような額装された資料やパネルを同じ高さに展示するには、たこ糸などを水平に張って固定することで、展示作業が効率よく行える”小技”もあります。

現場だからこそ身につくスキルや、展示方法の工夫を学び、それを即実践できるのが博物館実習のよいところだと感じています。ちなみに、実習生も早速たこ糸を張る”小技”を実践していました。

資料の展示が終わり、次の作業はライティングです。

ライティング作業をする実習生

ライトを当てる作業は、資料を見やすくするだけでなく、ひとつひとつの資料を際立たせる効果もあります。そのため、ライトの角度や光量が重要となってきます。


さて、展示替え作業を終えた実習生ですが、実習の課題でもある自分たちで企画し展示を行う「成果展示」にどのくらい活かすことができたのでしょうか。こうご期待ください。

(学芸員 菅野将史)

博物館実習の様子(その1)


資料館では、8月15(土)~21(金)まで四国大学の博物館実習生2名を受け入れ実習を行いました。

主な実習内容は、阿波人形浄瑠璃芝居定期公演の舞台設営や各展示コーナの展示替えです。

緊張のためか固さも残る実習生でしたが、実習初日から人形浄瑠璃芝居定期公演の舞台設営という大仕事です。
舞台設営では、背景幕の設置や観客席の設置など慣れない作業ながらも一生懸命取り組んでいました。

試行錯誤しながら背景幕を張る作業

設営後、実習の一環として定期公演を観劇し、観劇後には人形を操る体験もできました。これには、お客様も実習生も大はしゃぎでした。

人形操りを体験する風景

舞台設営という裏方の仕事ながらも、お客様や人形一座の役者と「ふれあう」ことができた実習初日になったのではないかと思います。

(学芸員 菅野将史)

2015年7月14日火曜日

板野郡文化財保護審議会連絡協議会総会・研究会に参加して

  
 平成27年7月14日(火)、北島町総合庁舎7階大ホールにて開催された、板野郡文化財保護審議会連絡協議会総会および研修会に出席してきました。
 
 総会は滞りなく行われ、研修会では次のような報告がありました。
 
三好昭一郎氏(藍住町文化財保護審議会会長)「中世から近世へ-板野郡の場合-」




 報告内容は省略しますが、県外からきた新米学芸員の私にとって、板野郡の歴史について学ぶことができる貴重な報告となりました。

(学芸員 菅野 将史)
  

2015年4月11日土曜日

ごあいさつ

皆様、はじめまして。

4月から、松茂町歴史民俗資料館の学芸員として勤務しております、菅野将史(かんの まさし)と申します。

埼玉県から松茂町にやってきたため、右も左も分からない状況ではありますが、徳島県や松茂町の歴史・文化について勉強中です。

専門は、江戸時代の流通や経済について研究しています。特に、古文書(こもんじょ)を解読することで、当時の状況を明らかにしています。

今後も、学芸業務を中心に定期的に更新していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
(学芸員 菅野 将史)

2015年3月3日火曜日

第7回「現代の木偶展」に出品して

 
  2015年2月26日(木)から3月1日(日)までの4日間、あわぎんホール(徳島県郷土文化会館)3階B展示室を会場に、第7回「現代の木偶展」が開催されました。

  過去6年間の同展では、阿波木偶作家協会に所属する現代の人形師たちの作品と、財団法人徳島県文化振興財団が主催する「阿波木偶制作教室」受講生たちの作品が展示されていましたが、この第7回の展示では、「人形富 生誕200年」を記念して、人形富作の名品もあわせて展示することになりました。

  そこで、人形富作の木偶頭を複数所蔵する当館(松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館)では、文化財展示室に常設展示している人形富の頭2点を出品・展示することになりました。

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  以下の写真は、最終日(3月1日)の午後、第7回「現代の木偶展」の様子です。まず会場に到着すると、当館から出品した人形富作「娘頭」のポスターがお出迎えしてくれます。


  会場入口の吊り看板も、当館の木偶ですね。


  会場内には、びっしりと木偶人形が展示されており、現代の人形師たちが精力的に制作している状況と、多くの受講生(アマチュア)たちが制作を趣味として楽しんでいる様子が伝わってきました。まず間違いなく、徳島県は日本一木偶人形制作が盛んな土地柄です。

  お馴染み「お弓」と「おつる」の頭をはじめ、様々な役柄の木偶頭・人形が並ぶ様子は壮観でしたが、「著作権上問題があるかな?」と思って、写真の撮影は自粛しました。

  そして会場を奥まで進むと、見覚えのある後ろ姿の二人がいます。長年、当館(松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館)の木偶人形教室の指導をされた甘利洋一郎先生〔右〕と吉田尚行先生〔左〕です。吉田先生には、今も松茂町内の木偶彫りサークルをご指導いただいています。


  二人の先生方が談笑されている前に、当館から出品の2点が展示されていました。壁面には、人形富の墓碑の写真も展示されています。


  幕末~明治に活躍した人形富は、かの有名な天狗久の師匠で、小ぶりですが美しい頭を作っています。ただ、現存する作品の数が少なく、複数の頭が一堂に揃う機会は貴重です。今回、複数の頭を展示したことにより、甘利先生から「人形富の頭を並べてみると、左目と右目の彫りが一様に違うことがわかる。」との指摘がありました。
(主任学芸員 松下師一)
  

2015年2月24日火曜日

第11回「四国ミュージアム研究会」の思い出

  
 2月22日(日)、同僚の冨士久美子学芸員補と一緒に、第11回「四国ミュージアム研究会」に参加してきました。会場は、香川県高松市の瀬戸内海歴史民俗資料館で、風光明媚な五色台の山頂にあります。実は、40年以上も四国に住んでおりながら、この館を見学するのは初めての体験でした。
  

 会場に到着してまず、建物の個性的な外観に驚きました。まるで中世ヨーロッパの“砦”か“要塞”のようです。玄関とおぼしき階段を進むと貼り紙があり、玄関脇の階段を下へ行くよう指示されました。研究会場は地下の会議室で、本当に要塞のような建物です。

 研究会では、四国四県の学芸員から、次のような報告がありました。

  • 田中謙 氏(愛媛県/今治市村上水軍博物館)「四国におけるミュージアムの現状 ― 基礎データ調査の成果を受けて ―」
  • 高嶋賢二氏(愛媛県/町見郷土館)「活かせる資源になるために ― 町見郷土館の場合 ―」
  • 筒井聡史氏(高知/土佐山内家宝物資料館)「博物館と地域連携 ― 土佐山内宝物資料館の試み ―」
  • 辻野泰之氏(徳島/徳島県立博物館)「古生物タイプ標本の3Dデジタルデータベース構築の試み ― 日本産白亜紀アンモナイトを例にして ―」
  • 松岡明子氏(香川/香川県教育委員会)「ミュージアム×古美術×未就学児 ―“小さなこどもの観覧日”の試み ―」

 詳細な内容紹介は省略しますが、どの報告も実践に裏打ちされたものばかりで、とても参考になる内容でした。

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 さて、私にとって印象深いのは、報告・質疑後に開催された館内見学会です。そこで、思いもかけない出会いがあったのです。

 その出会いは、懐かしい“人”ではありません。“船”です。

 実は私、2006年秋に吉川弘文館から発売された『街道の日本史44 徳島・淡路と鳴門海峡』という本を分担執筆し、その中で鳴門市堂浦の「テグス行商」について書いたことがあるのです。少し長くなりますが、当該箇所を引用します。
堂浦のテグス行商 幕末期の史料によると、堂浦には漁師や船乗り以外に、船大工や諸職人・商人も居住していた。中でもテグス売りの商家が十五軒あった。テグスとは、鯛の一本釣りに使う天然素材の釣り糸で、ほとんどが中国大陸からの輸入品であった。堂浦のテグス商は、仕入れたテグスを近隣漁村へ販売するだけではなく、カンコ船と呼ばれる小型木造漁船(通称「テグス船」)に乗って瀬戸内海一円を行商した。
(中略) 
 テグス行商は、春に堂浦を出て商圏の漁村や島々を巡り、秋から冬に堂浦へ帰港した。漁村や島々では、釣具店があるところでは卸売りにし、ないところでは漁師の家を一軒一軒訪問販売した。漁の繁忙期には、沖で漁をしている釣り船に直接販売することもあった。明治以降になると船に屋形がつき、テグス商は夫婦で船上生活しながら、寄港先で客を船に迎え入れて販売するようになった。
 そんな堂浦のテグス行商も、戦後ナイロン釣り糸の普及とともに徐々に減少し、ついには昭和四十七年(一九七二)の大神丸の廃船を最後に姿を消した。

 2006年当時、私は『鳴門市史』を参考にしながら、今は廃れてしまったテグス行商について原稿を執筆したわけです。当初の編集方針では、テグス行商の項目は無かったのですが、私が幼い頃(昭和50年ごろ)に見たTVドキュメンタリーが印象深く、どうしても書き残し紹介したい一心から、独断で項目を追加しました。しかし、適当な資料が無く、唯一残る資料は『鳴門市史』だけという印象を持っていました。

 ところが、瀬戸内海歴史民俗資料館の見学会の際、特別に案内された収蔵庫で、私は「あっ!」と驚きました。まるで体育館のような巨大な収蔵庫内に、廃船となった最後のテグス行商船「大神丸」が、そのまま保管されていたのです。感動しました。船に家を乗せたというか、むしろ家が船になったような姿に、なんだか半世紀前にタイムスリップしたような感覚を覚えました。「本物との出会い」「過去が甦るような感覚」、実に素晴らしい体験です。

 残念ながら、諸手続きの事情で写真が掲載できないのですが、確かに「大神丸」は今もその姿を遺しているのです。

(主任学芸員 松下師一)