2014年12月1日月曜日

「歴史文化基本構想研修会」参加記 〔1〕

  
  11月27日(木)・28日(金)の両日、長野県松本市で開催された「歴史文化基本構想研修会」に参加しました。とても充実した研修会だったので、その内容を簡単にレポートします。


  我が松茂町から松本市までの移動は、「とくとくターミナル」(高速バス停留所「松茂」)からバスに乗車し、大阪でJRに乗り換えます。新大阪から名古屋までは、新幹線「のぞみ」ですね。


  名古屋駅に到着すると、すぐさま中央線の「特急しなの」へ乗り継ぎです。「松茂~大阪」が約2時間半、「新大阪~名古屋」が約50分、「名古屋~松本」が約2時間、乗り換え時間を含めて約6時間の行程です。上の写真は、松本駅のホームに降り立ち、長野へ向かって出発した「特急しなの」の後ろ姿です。


  松本駅から市内循環バスに乗り約15分、ようやく松本市の研修会場に到着しました。研修会場は旧制松本高校学校(現・信州大学)の講堂だった建物で、現在は松本市が所有し、「あがたの森文化会館」講堂として市民に利用されています。貴重な近代建築ということで、国の重要文化財にも指定されています。重要文化財の中で、文化庁の研修を受講するという、粋な計らいです。


  11月27日(木)午後1時、全国から参集した60余名の受講生前で文化庁の幹部があいさつし、研修が開始されました。市町村に「歴史文化基本構想」の策定を促す歴史的経緯や、先進市町村の事例が説明され、聴き入ってしまいました。特に、兵庫県篠山市の先進事例には「なるほど」と思う点が多く、今後の貴重な参考資料を得ることができたと思います。

  さて、重要文化財である講堂には、ひとつ問題がありました。十分な数のトイレがないのです。そこで、隣接する建物のトイレも利用することになりますが、そこは「旧制高校記念館」というミュージアムでした。


  トイレのついでに1階の展示をのぞいてみると、旧制松本高校だけを対象にしたミュージアムではなく、全国の旧制高校を対象にしています。私は静岡大学の卒業生なので、その前身である旧制静岡高校も展示されているかなと見学すると、ありました。小説家・吉行淳之介の展示とともに、母校・旧制静岡高校が紹介されています。「そうだ、吉行淳之介は大先輩だった。」と再確認しつつ、講堂に帰って研修を継続しました。〔続く〕

(主任学芸員 松下師一)
  

2014年8月23日土曜日

町指定無形民俗文化財「二上り音頭と回り踊り」

  
  毎年8月23日は、松茂町中喜来の呑海寺を会場に、「二十三夜」(主催:中喜来協議会)の祭礼が開催されます。せっかく視察に行ったのですが、うっかりカメラを忘れてしまい、手持ちのスマホで撮影してみました。


  境内中央に設けられた櫓の周囲を、踊り手が輪になって「回り踊り」をします。「阿波おどり」に代表される“行進踊り”のイメージが強い徳島県では、「回り踊り」はマイナーな印象です。


  櫓の上では、町指定無形民俗文化財「二上り音頭」が実演されます。太棹三味線を伴奏に、“音頭出し”が浄瑠璃くずし音頭を吟じます。近年、踊りやすいようにという考えから、拍子木を打つようになりましたが、本来は三味線と声(浄瑠璃くずし音頭)だけで踊っていました。


  櫓の中央、黒いTシャツの人物は、三味線に取り組む少年です。伝統芸能に取り組む若者がいること、とてもうれしいですね。


  一昨年から、吉野川市美郷の「廻り踊り」と交流しています。薄い青の法被が中喜来二上り音頭保存会、濃紺の法被が美郷廻り踊り保存会の面々です。


  美郷の保存会から、山岳信仰で行われている法螺貝の実演披露がありました。


  地元、喜来小学校の児童も参加して、踊りの輪は延べ1時間あまり(途中、数度の休憩あり)続けられました。


(主任学芸員 松下師一)

  

写真展 小笠原諸島 ― 世界自然遺産と鎮魂 ―

  
  今年度(平成26年度)、当館では、防衛省の「特定防衛施設周辺整備調整交付金」の交付を受け、地域の人材を活かした文化事業の充実を図っています。その一環として、8月5日(火)から、特別企画「写真展 小笠原諸島 ― 世界自然遺産と鎮魂 ―」を開催中です。
  ここでは、その様子を紹介します。


  今回の特別企画は、『松茂町誌』続編第3巻の編集に際し、徳島空港発着の航空機写真を提供くださった田中雅己氏とのご縁により、開催することになりました。田中氏は元・海上自衛官で、航空機写真の愛好家としてして知られていますが、現職当時に赴任した「小笠原諸島」の貴重な写真をお持ちでした。


  展示内容は大きく3部に分かれています。

*          *

  第1部は、日本の最東端・南鳥島(みなみとりしま)です。面積1.5㎢しかない絶海の孤島ですが、海上自衛隊と気象庁の職員が常駐しています。この島を守ることにより、日本の排他的経済水域は43万㎢も広がります。


*          *

  第2部は、小笠原諸島の中心地・父島母島です。平成23年(2011年)に、ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界自然遺産に登録され、その美しく、貴重な自然は世界中から注目されています。


  展示スペースの都合上、母島の展示は、ちょっと離れた場所にあります。


*          *

  第3部は、第二次世界大戦の激戦地・硫黄島(いおうとう)です。日米両軍あわせて3万人近い戦没者があり、数多くの戦跡(せんせき)が残ります。


  硫黄島の写真は数が多いため、前編・中編・後編に分かれています。
  まずは前編「名勝と戦跡」の紹介で、昭和20年(1945年)2月~3月の激戦(硫黄島の戦い)の戦跡が続きます。


  展示ボードの角を曲がると、戦没者等の顕彰碑を紹介したコーナーです。中には、摺鉢山の山頂碑を訪れた小泉元総理の写真もあります。


  そして、奇岩や特徴的な風景など、島の名勝を紹介するコーナーです。島名の由来になった“硫黄”に関わる名勝が多いですね。


  がらりと雰囲気が変わって中編です。「遺骨収集と鎮魂」をテーマにしています。
  戦後70年近くたった今も、毎年遺骨収集が行われており、荼毘(だひ)に付された遺骨は、東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納骨されています。


  後編は、海上自衛隊を中心とする「在島業務」と、貴重な「自然」を紹介します。


  展示の最後は、北硫黄島と南硫黄島の紹介です。


*          *

  この展示は、9月7日(日)まで開催します。観覧無料、ぜひご覧ください。

  なお、この展示は好評につき、若干の会期延長を検討中です(8月23日現在)。延長が正式に決まりましたら、ホームページ等でお知らせします。

(主任学芸員 松下師一)

  

2014年7月13日日曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔下〕

― 豊久開基碑 ―

Q(質問の要旨).2月初めごろ、環境センター南側・出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに気づきました。以前は無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
文化財が突然出現したので不思議です。

A(前回の続き).ご質問の文化財は、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(ちしょうきねんひ)」です。

  明治8年(1875年)に建立された「豊久開基碑」は、豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記す貴重な文化財でしたが、県と町の公共工事が原因となり、昭和54年(1979年)に3キロメートルも離れた広島地区の公園内に移転しました。以降、豊久の文化財は、実に30年以上にわたり「故郷(ふるさと)」を離れていたのです。

  しかし、一昨年の秋頃から、こうした状況を憂う声が上がりはじめました。「地域の歴史を伝える文化財は、やはり本来の地にあるべきではないか!」というのです。

  かつての工業団地の造成にともない、豊久から隣接する福有(ふくゆう)地区に集団移転した「豊久自治会」の関係者と、豊久の氏神である出雲神社の関係者、また境内地を共有する神明(しんめい)神社(満穂(みつほ)地区の氏神)の関係者が協力し、「豊久開基碑」を再び豊久に戻す取り組みが行われました。

  昭和54年当時と違い、豊久の堤防上に出雲神社と神明神社が整備され、ちょうどよい空き地が残されていたのも幸いでした。

  結果、文化財の里帰り事業はスムーズに進み、平成25年(2013年)の年末、34年間ぶりに「豊久開基碑」と関連する「豊久致祥記念碑」が豊久の地に戻ってきたのです。関係する皆さんからは、「うれしい。故郷の文化財は、やはり地元で顕彰していきたい。」という声が寄せられています。

「豊久開基碑」の里帰り活動に取り組んだ
(左から)香川嘉明さん・佐藤康幸さん・森豊さん

*         *        *

  ところで、昭和30年代から豊久集落の世話役として長年活動された香川嘉明さんから、思いがけない指摘をいただきました。

香川「資料館の学芸員さん、連載記事に誤りがあるでよ。あの石碑は、明治からずっと豊久におったんと違うでよ。実は、・・・。」

学芸員「え、えっ! それは知りませんでした。ぜひ、その話、聞かせてください。」
(3回の連載は終了です。    ・・・でも、続きます。)    

出典:『広報まつしげ』295号(2014年7月発行)掲載。
    

2014年6月21日土曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔中〕

― 豊久開基碑 ―
    
(質問の要旨).2月初めごろ、環境センター南側・出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに気づきました。以前は無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
 文化財が突然出現したので不思議です。

(前回の続き).ご質問の文化財は、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(ちしょうきねんひ)」です。
堤防上の「豊久開基碑」〔左〕と「致祥記念碑」
(昭和50年〔1975年〕ごろ撮影)

  豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記した「豊久開基碑」は、明治8年(1875年)に建立されてから、昭和54年(1979年)までの約100年間、松茂町豊久の海岸堤防の上にありましたが、二つの理由から一旦地区外へ移転することになりました。

  第一の理由は、豊久地区が工業団地になったためです。昭和40年(1965年)に「新産業都市」の指定を受けた徳島県は、豊久地区に「松茂工業団地」を造成することとし、江戸時代以来100年以上の歴史を有する同地区から民家が無くなってしまいました。昭和49年(1974年)3月22日には、豊久の「解散式」が挙行されています。

  第二の理由は、松茂町環境センター(し尿処理場)の建設です。昭和40年代後半、松茂町は郡内各町とともに「板野衛生組合」を設立し、し尿の海洋投棄を行っていました。郡内のし尿は松茂町の今切川岸壁へ集められ、船で紀伊水道へ投棄されていたのです。当初の取り決めでは、板野郡西部に共同でし尿処理場を建設する計画でしたが、反対運動で計画が頓挫し、海洋投棄(松茂町へのし尿の集積)は長々と継続していました。悪臭に苦しむ松茂町としては納得がいかず、昭和53年(1978年)に組合から脱退し、翌年、単独でし尿処理場を建設することにしました。その際、建設予定地に「豊久開基碑」と「豊久致祥記念碑」があったのです〔写真右上〕

  当時、これら文化財の移転先を探したのですが、豊久は全域が工業団地になっており、近隣に適当な移転先がありませんでした。やむなく3キロメートルも離れた広島地区の公園内に移転することになり、以降、平成25年(2013年)の年末まで34年間にわたり、豊久の文化財は故郷を離れていたのです。(続く)

出典:『広報まつしげ』294号(2014年6月発行)掲載。
  
  

2014年5月4日日曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔上〕

― 豊久開基碑 ―

Q.私は健康維持のため、暇を見つけては滑走路の周囲を歩くことにしています。
 
  先日(2月初めごろ)、少しコースを変えて海岸堤防を環境センターまで歩いたところ、出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに驚きました。昨年暮れに歩いたときには無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
 
  文化財が突然出現したので不思議です。

A.ご質問ありがとうございます。不思議な文化財は、写真〔右〕の石碑ですね。

  これは、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(とよひさちしょうきねんひ)」です。ご指摘のとおり、昨年(2013年)12月28日まで石碑はここに無く、町内広島地区の松茂運動公園「成人の森」(町立図書館南側)にありました。

  年末年始の間に、広島から豊久地区の出雲神社横へ移転したというわけです。不思議に思われたのも当然でしょう。

  でも、そもそも豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記した石碑が、どうして地域外の公園にあったのでしょうか。その経緯をたどると、突然出現した理由がわかります。

  実はこの石碑、明治8年(1875年)に建立されてから、昭和54年(1979年)までの約100年間は、現在地にほど近い、海岸堤防の松林の中にたたずんでいたのです。

  ところがその年、ある事情から地区外へ移転したのでした。 (続く)

出典:『広報まつしげ』293号(2014年5月発行)掲載。
  
   

2014年3月14日金曜日

開館20周年記念「徳島地方史研究会【松茂大会】」の記録

 
  松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館では「開館20周年」を記念して、徳島地方史研究会の第36回公開研究大会を松茂町へ誘致しました。

  大会テーマは、ここ2年間の大会テーマ(「災害に学ぶ阿波の歴史」と「土地に刻まれた阿波の歴史」)を継承し、さらに松茂らしさを反映させる観点から、「吉野川流域の開発と治水」です。

  100名を超えるお客様が来場されることから、本拠地である歴史民俗資料館での開催ではなく、松茂町総合会館の多目的ホールをお借りしました。


  2014年3月9日(日)の午前10時、公開研究大会の受付を開始しました。待ちかねたお客様が、次々と入ってきます。


  10時30分、開会です。徳島県立博物館の松永学芸員が、司会を担当します。主催者席の一番手前が私(松茂町歴史民俗資料館 主任学芸員・松下)です。


  冒頭挨拶は、徳島地方史研究会の元代表・立石恵嗣さんです。本来は、徳野隆代表が挨拶と大会の趣旨を説明する予定でしたが、インフルエンザのためにダウンし、急遽、元代表に交代です。


  続いて地元代表として、松茂町教育委員会の庄野教育長が、大会歓迎の挨拶を行いました。


  場内のお客様は、入れ替わりがありましたが、終日ほぼ平均して100名程がおいでました。


  報告者は5名。最初の報告は、徳島県埋蔵文化財センター主任研究員の島田豊彰氏で、演題は「中世阿波の船着き遺構と流通・交通」です。


  島田氏は、全国的な視野から船着き遺構の事例を挙げ、その後に吉野川流域の川西遺跡・大松遺跡等の遺構を紹介されました。


  続く2人目の報告は、東大阪市文化振興協会 旧河澄家学芸員の井上伸一氏で、演題は「吉野川下流域を拓いた上方の人々」です。


  井上報告は、主に笹木野村・住吉新田の開発史を検証したもので、私たち徳島の郷土史家が見落としてきた県外の史料を駆使され、吉野川下流域の近世史を書き直すものでした。(私、松茂町歴史民俗資料館の職員として、優れた成果発表に感謝を申し上げます。)


  お昼休憩をはさんだ後に、3番目の報告が始まりました。土木工学(史)の視点から、フジタ建設コンサルタント技術士の高田恵二氏が、「近世吉野川における河川技術と視点」と題して報告されました。


  コンピュータを駆使し、現代のデジタル地形図と近世の分間図を重ね合わせる手法など、「さすがは技術者」と思わせる内容と、愚直に古文書を解読し、現地を足で歩いた成果が組み合わさり、なかなか興味深い報告でした。


  4人目の報告者は、徳島地方史研究会の元代表で、現在は石井町教育委員会の社会教育指導員である立石恵嗣氏です。立石氏は、氏のライフワークともいえる「吉野川の治水と「八ヶ村堰訴訟」」の報告で、近代的な治水事業が地域社会にもたらした葛藤を紹介されました。


  立石氏は、明治時代に住民が県庁を訴えた「八ヶ村堰訴訟」を、「全国的にも注目を集めた裁判」と評しており、近代化の矛盾と捉えているようでした。


  最後、5人目の報告は、香川大学防災教育センター特命教授の松尾裕治氏で、報告題は「吉野川の明治以降の治水(堤防)対策」です。


  松尾氏は、かつて建設省徳島工事事務所(現・国土交通省徳島河川国道事務所)に勤務され、河川整備の現場で治水研究に携わっていた経験者です。私も10数年前(『四国三郎物語』などを編さんしていた頃)に度々ご一緒させていただいたのですが、変わらぬ熱弁に感心しました。


  そして最後は、全報告者が登場してのパネルディスカッションです。私がコーディネータを拝命しましたが、時間も45分と少なく、議論は消化不良だったかも知れません。


  とはいえ、朝から夕方まで丸一日、「吉野川流域の開発と治水」について、その歴史を考え続けたのです。来場の皆さん一人ひとりに、某か実りある成果がもたらされたものと信じています。

 
  午後4時45分、全日程が終了しました。

(主任学芸員 松下師一)