2009年8月1日土曜日

QAシリーズ1 月見ヶ丘の歌碑をめぐって(上)

― 土御門上皇の生涯 ―
  

Q.先日、孫を連れて松茂町の新名所・月見ヶ丘海浜公園に遊びに行きました。
  
 海を臨む丘を登ると、「土御門上皇 歌碑」(写真)があり、阿波国(徳島県)ゆかりの上皇にたいへん興味を引かれました。ぜひ、土御門上皇の生涯や、碑に記された短歌の意味をくわしく教えてください。よろしくお願いします。
 (会社員・男性)
  

A.土御門上皇は、後鳥羽天皇の第一皇子として、鎌倉時代はじめの建久6年(1195)に生まれました。この当時、発足間もない鎌倉幕府は、東日本の武士を中心とした権力で、いまだ西日本では、京都の天皇・公家による政治が一般的でした。
  
 建久9年(1198)1月には、父・後鳥羽天皇の退位に伴って、わずか満3歳で天皇になりましたが、政治の実権は上皇となった父(後鳥羽上皇)と、母方の祖父の源通親が握っていました。当時の歴代天皇は、京都・鎌倉の権力闘争の渦中にあり、政治的中立性を求められる皇位を不自由に思い、若くして退位しては「上皇」という自由な立場から権力闘争に関わっていきました。いわゆる「院政」です。そのため土御門天皇の在位期間も短く、わずか12年余り、15歳で弟の順徳天皇に譲位して上皇になりました。
  
 しかし、父・後鳥羽上皇が強大な実権を握る中で、土御門上皇の政治的立場は弱かったようです。一説には政治から距離を置き、短歌を詠む日々を送ったともいわれています。
  
 承久3年(1221)、「討幕」を掲げて後鳥羽上皇が挙兵した「承久の乱」の際にも、土御門上皇はそれに参画していませんでした。そのため、上皇の軍勢が鎌倉幕府軍に完敗した後、父・後鳥羽上皇は隠岐(島根県)へ流され、弟・順徳上皇は佐渡(新潟県)へ流されましたが、土御門上皇は幕府から何の罪にも問われませんでした。
  
 ところが土御門上皇は、これを潔しとせず、みずから京都を去って土佐国(高知県)へ引っ越してしまったのです。そして貞応2年(1223)5月、理由あって土佐国から阿波国へ再度引っ越し、寛喜3年(1231)に36歳で他界するまで、その生涯を阿波国で過ごしました。
(つづく)
  
※『広報まつしげ』No.233(2009年5月号)掲載。