Q.毎号、「路傍の歴史を訪ねて」を楽しみにしています。このところ連載の人物シリーズ、とてもおもしろいですね。先人の”生き様“に歴史の浪漫を感じます。
そこでちょっと質問です。著名人では無いのですが、江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。
(地方公務員・女性)
A.ご愛読ありがとうございます。ご指摘の人物は、18世紀末の寛政年間に、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野地区)の庄屋(代表者)を務めた”松尾源右衛門“という人です。
江戸時代、旧吉野川・今切川下流の農村(現在の松茂町や鳴門市大津町・徳島市川内町など)では、日照りが続くと川の水量が減り、海水が川に逆流してたびたび”塩害“(飲料水や農業用水に塩分が混じる災害)が発生しました。当時の土木技術では、海水の逆流を止める河口堰を築くことはできず、人々は遠く上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねていきました。
宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰(上板町・石井町)は、そうした取り組みの一つで、本流の水を北(鳴門市・松茂町方面)へ流し、旧吉野川・今切川の水量を増やすための利水施設です。当時、松茂の人々は、はるか20キロメートル離れた工事現場に出かけ、第十堰完成のために必死で働きました。車や重機(ブルドーザー、クレーンなど)が無かった時代のことです。
そうした経緯の中、寛政4年(1792年)春、笹木野村庄屋の松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「吉野川付け替え工事」を提起しました。
江戸時代、旧吉野川・今切川下流の農村(現在の松茂町や鳴門市大津町・徳島市川内町など)では、日照りが続くと川の水量が減り、海水が川に逆流してたびたび”塩害“(飲料水や農業用水に塩分が混じる災害)が発生しました。当時の土木技術では、海水の逆流を止める河口堰を築くことはできず、人々は遠く上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねていきました。
宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰(上板町・石井町)は、そうした取り組みの一つで、本流の水を北(鳴門市・松茂町方面)へ流し、旧吉野川・今切川の水量を増やすための利水施設です。当時、松茂の人々は、はるか20キロメートル離れた工事現場に出かけ、第十堰完成のために必死で働きました。車や重機(ブルドーザー、クレーンなど)が無かった時代のことです。
そうした経緯の中、寛政4年(1792年)春、笹木野村庄屋の松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「吉野川付け替え工事」を提起しました。
(つづく)
(右上の写真)現在の「第十堰」(南岸・石井町側から写す)
※ 『広報まつしげ』No.236(2009年8月)掲載。