― 土御門上皇・望郷の短歌 ― Q.(質問の要旨) 松茂町の新名所・月見ヶ丘海浜公園にある「土御門上皇 歌碑」について、上皇の生涯や短歌の意味を教えてください。よろしくお願いします。(会社員・男性)
A.(前回の要旨) 土御門上皇は後鳥羽天皇の第一皇子として、鎌倉時代はじめの建久6年(1195年)に、京都に生まれました。わずか満3歳で天皇に即位しましたが、政治的実権はあまりなく、短歌を詠む日々を送ったとも伝えられます。15歳で弟の順徳天皇に譲位して上皇になりましたが、「承久の乱」(承久3年・1221年)の後、みずから京都を去って土佐国(現在の高知県)へ引っ越しました。 <前回のつづき> 貞応2年(1223年)5月、土御門上皇は理由あって土佐国から阿波国(現在の徳島県)へ再度引っ越し、寛喜3年(1231年)に36歳で他界するまで、その生涯を阿波国で過ごしました。
土御門上皇の阿波国での足どりには諸説があり、行宮(屋敷)のあった場所としては、吉田(現在の阿波市土成町)・下庄(板野町)・勝瑞(藍住町)など、また葬儀が行われた場所としては、池谷・里浦(ともに鳴門市)などの説があります。ただ、いずれの説でも上皇ゆかりの地は、徳島県の北東部、松茂町からさほど遠くないところばかりです。
明治時代の地理書『板野郡村誌』によると、土御門上皇は紀伊水道を臨む「月見か崎」という海岸に立って、次の短歌を詠んだそうです。
海原や 月さしのぼる末晴れて まちかくなりぬ 紀路の遠山
「(暮れなずむ)海原(紀伊水道)に月が昇り、東の空が明るくなった。(思いがけず)間近に紀伊国(和歌山県)の山並みが見える」という意味です。明るい満月の光が、遙かに海を隔てた紀伊の風景をも身近に感じさせたのでしょう。この「月見か崎」こそ、今、海浜公園がある松茂町の月見ヶ丘海岸と考えられています。
鎌倉時代の月見ヶ丘海岸は、旧吉野川・今切川河口に細長く突き出した無人の砂州でしたが、当時から月見の名所として知られていたようです。若くして四国へ退いた土御門上皇にしてみれば、月の美しさに感動するよりも、月明かりに映える本州の山影に望郷の念が募ったことでしょう。
(右上の写真)吉田潤二さん(松茂町広島)撮影「月見ヶ丘海浜公園の月と海」
(第5回松茂町ふるさと写真コンクール入選作品)
※『広報まつしげ』No.234(2009年6月号)掲載。