2009年9月1日火曜日

QAシリーズ5 真水を求めて!(下)

― 時代よりも早すぎた松尾源右衛門の提言 ―

Q.(質問の要旨)江戸時代、松茂に「吉野川の付け替え工事」を提言した偉人がいたという話を耳にしました。どういったエピソードで、どんな人物なのでしょうか、ぜひ教えてください。
(地方公務員・女性)


A.(前回の要旨)江戸時代、旧吉野川・今切川下流域の農村では、”塩害“がたびたびが発生しました。人々は上流の堤防や堰の改修工事を行って、川の水量を増やすための努力を重ねました。宝暦2年(1752年)に完成した吉野川本流の第十堰も、そうした取り組みの一つで、本流の水を旧吉野川・今切川へ流し、水量を増やすための利水施設でした。

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<前回の続き>
(写真1)松尾源右衛門の提言が記された古文書

 第十堰の完成から40年たった寛政4年(1792年)の春、板野郡笹木野村(現在の松茂町笹木野)の庄屋・松尾源右衛門は、徳島藩の「御蔵所」(農地の生産を管理し、年貢を徴収する役所)に対して、旧吉野川・今切川の水を大幅に増やす大胆な計画「(旧)吉野川付け替え工事」を提起しました。今に遺る古文書(写真1)から、その内容を紹介しましょう。


  1. 第十堰が完成したことによって吉野川の流れが遅くなり、堰の上流に土砂が堆積するようになった。

  2. そのため、堰のすぐ上流から北へ分派する旧吉野川の川底が浅くなり、水量が大幅に減ってしまった。

  3. 川底を浚渫(土砂を取り除くこと)するよりも、思い切って旧吉野川を付け替えて、第十堰の2キロメートル上流から分派するようにしたら、堆積土砂の影響を受けずにスムーズに水が旧吉野川へ流れるだろう。むしろ、堰上流に土砂が堆積し、本流の流れが悪くなれば、付け替えた旧吉野川がバイパス水路になり、水量は増えるに違いない。


 実にスケールの大きい提案です。また、その分析は実に正しく、明治17年(1884年)に明治政府の要請で吉野川を視察し、その治水計画を策定したオランダ人技術者、ヨハネス・デ・レーケも全く同じ指摘を行っています。

 しかし、残念ながら松尾源右衛門の提言は、江戸時代・200年余り昔の技術力・資金力では実現しませんでした。「時代よりも早すぎた提言」だったのです。

(写真2)第十堰付近の吉野川/赤い矢印の範囲が付け替えられた旧吉野川
 明治40年(1907年)、明治政府は国直轄の一大事業として吉野川の治水工事に取りかかります。この時、第十堰上流の旧吉野川付け替え工事も実施され、源右衛門の提言が現実の運びとなったのです。提言から135年後、デ・レーケの指摘から43年後、着工から20年後の昭和2年(1927年)、付け替えられた旧吉野川(写真2/赤い矢印の範囲)は無事竣工しました。


※『広報まつしげ』No.237
(2009年9月)掲載。