2015年2月24日火曜日

第11回「四国ミュージアム研究会」の思い出

  
 2月22日(日)、同僚の冨士久美子学芸員補と一緒に、第11回「四国ミュージアム研究会」に参加してきました。会場は、香川県高松市の瀬戸内海歴史民俗資料館で、風光明媚な五色台の山頂にあります。実は、40年以上も四国に住んでおりながら、この館を見学するのは初めての体験でした。
  

 会場に到着してまず、建物の個性的な外観に驚きました。まるで中世ヨーロッパの“砦”か“要塞”のようです。玄関とおぼしき階段を進むと貼り紙があり、玄関脇の階段を下へ行くよう指示されました。研究会場は地下の会議室で、本当に要塞のような建物です。

 研究会では、四国四県の学芸員から、次のような報告がありました。

  • 田中謙 氏(愛媛県/今治市村上水軍博物館)「四国におけるミュージアムの現状 ― 基礎データ調査の成果を受けて ―」
  • 高嶋賢二氏(愛媛県/町見郷土館)「活かせる資源になるために ― 町見郷土館の場合 ―」
  • 筒井聡史氏(高知/土佐山内家宝物資料館)「博物館と地域連携 ― 土佐山内宝物資料館の試み ―」
  • 辻野泰之氏(徳島/徳島県立博物館)「古生物タイプ標本の3Dデジタルデータベース構築の試み ― 日本産白亜紀アンモナイトを例にして ―」
  • 松岡明子氏(香川/香川県教育委員会)「ミュージアム×古美術×未就学児 ―“小さなこどもの観覧日”の試み ―」

 詳細な内容紹介は省略しますが、どの報告も実践に裏打ちされたものばかりで、とても参考になる内容でした。

*           *           *

 さて、私にとって印象深いのは、報告・質疑後に開催された館内見学会です。そこで、思いもかけない出会いがあったのです。

 その出会いは、懐かしい“人”ではありません。“船”です。

 実は私、2006年秋に吉川弘文館から発売された『街道の日本史44 徳島・淡路と鳴門海峡』という本を分担執筆し、その中で鳴門市堂浦の「テグス行商」について書いたことがあるのです。少し長くなりますが、当該箇所を引用します。
堂浦のテグス行商 幕末期の史料によると、堂浦には漁師や船乗り以外に、船大工や諸職人・商人も居住していた。中でもテグス売りの商家が十五軒あった。テグスとは、鯛の一本釣りに使う天然素材の釣り糸で、ほとんどが中国大陸からの輸入品であった。堂浦のテグス商は、仕入れたテグスを近隣漁村へ販売するだけではなく、カンコ船と呼ばれる小型木造漁船(通称「テグス船」)に乗って瀬戸内海一円を行商した。
(中略) 
 テグス行商は、春に堂浦を出て商圏の漁村や島々を巡り、秋から冬に堂浦へ帰港した。漁村や島々では、釣具店があるところでは卸売りにし、ないところでは漁師の家を一軒一軒訪問販売した。漁の繁忙期には、沖で漁をしている釣り船に直接販売することもあった。明治以降になると船に屋形がつき、テグス商は夫婦で船上生活しながら、寄港先で客を船に迎え入れて販売するようになった。
 そんな堂浦のテグス行商も、戦後ナイロン釣り糸の普及とともに徐々に減少し、ついには昭和四十七年(一九七二)の大神丸の廃船を最後に姿を消した。

 2006年当時、私は『鳴門市史』を参考にしながら、今は廃れてしまったテグス行商について原稿を執筆したわけです。当初の編集方針では、テグス行商の項目は無かったのですが、私が幼い頃(昭和50年ごろ)に見たTVドキュメンタリーが印象深く、どうしても書き残し紹介したい一心から、独断で項目を追加しました。しかし、適当な資料が無く、唯一残る資料は『鳴門市史』だけという印象を持っていました。

 ところが、瀬戸内海歴史民俗資料館の見学会の際、特別に案内された収蔵庫で、私は「あっ!」と驚きました。まるで体育館のような巨大な収蔵庫内に、廃船となった最後のテグス行商船「大神丸」が、そのまま保管されていたのです。感動しました。船に家を乗せたというか、むしろ家が船になったような姿に、なんだか半世紀前にタイムスリップしたような感覚を覚えました。「本物との出会い」「過去が甦るような感覚」、実に素晴らしい体験です。

 残念ながら、諸手続きの事情で写真が掲載できないのですが、確かに「大神丸」は今もその姿を遺しているのです。

(主任学芸員 松下師一)



2014年12月21日日曜日

真冬の豪雨でしたが


  世の中いろいろあるものです。昨日(12月20日)の阿波人形浄瑠璃芝居定期公演では、思いがけない真冬の豪雨のため、予定していた団体様の観劇がキャンセルになってしまいました。


  とても残念に思っておりましたが、豪雨の中ご来場くださったお客様と、とてもフレンドリーな時間を過ごすことができました。人数も少なかったので、即興の操り体験会と、記念撮影会を開催したのです。

  お客様も、人形一座の役者(人形遣い)たちも、大はしゃぎの定期公演会でした。

(主任学芸員 松下師一)


2014年12月12日金曜日

新しい昇開式の加賀須野橋

   
  今年の夏、加賀須野橋(開閉橋)の新橋(昇開橋)が完成しましたが、実は私、一度も開いたシーンを見たことがありませんでした。
  
  ところが、12月8日の月曜日(資料館は休館で休みの日です)、私用で通行したところ、「開いている!!」のです。初めての体験でした。

  
  上流側から貨物船が加賀須野橋に近づいてます。

  
  吊り上げられた道路の下を、貨物船が通過します(上の写真をよく見てください。車の前に貨物船の操舵室が写っています)。この間、自動車はひたすら待ちます。

  
  船が通過後、道路部分がエレベーターのように降りてきました。

  
  お~お、ほとんど降りましたね。やがて車の通行が再開できます。なお、使用されなくなった跳ね上げ式開閉橋は、現状、解体されずに新橋の下流側に残っています。今後解体されれば、当館(松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館)常設展示室の模型が、往時の姿を留めることになるでしょう。

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  さて、巡り合わせとは不思議なもので、半年間、開閉の場面に全く出合わなかったのに、その日の夕方4時にも、開閉の場面に巡り会いました。1日に2回とは、びっくりです。

(主任学芸員 松下師一)





2014年12月6日土曜日

四国地域史連絡協議会へ向けて

  
 昨日(12月5日)の夜、徳島市内某所で徳島地方史研究会の臨時評議員会が開催されました。私は同会の代表職務代理者(要するに副代表)なので、仕事を終えた後、急いで出発です。

 会議の主題は、来週土曜日(12月13日)に、第7回四国地域史連絡協議会大会(第37回徳島地方史研究会公開研究大会も兼ねる)を開催するため、その打ち合わせです。

 昨夜の徳島県内は雪の舞う真冬の寒さで、しかも12月の金曜日の夜だったため、国道11号・55号は大渋滞でした。ふだんマイカーで30分で距離が、なんと1時間30分もかかってしまいました。私の到着を待ってくださった役員の皆様、たいへんご迷惑をおかけしました。なお、評議員会終了後の帰路は、スイスイ走って25分で帰り着きました。

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 それでは歴史愛好家の皆様にお知らせします。12月13日(土)は、徳島駅西口バス停前・四国大学交流プラザにぜひご参集ください。「産業からみる地域の歴史」をテーマに、四国4県から研究報告があります。くわしくは、下記のチラシと、徳島地方史研究会のホームページをご参照ください。

    
(主任学芸員 松下師一)

  

2014年12月3日水曜日

「社会経済史学会」中国四国部会で報告

  
  11月29日(土)・30日(日)の両日、徳島市のシビックセンターで「社会経済史学会」の中国四国部会が開催されました。


  29日(土)は各個別報告、30日(日)はテーマ報告・シンポジウムがありました。私は主催者からの依頼により、30日の午前中、「上村源之丞座の近代史」について報告しました。人形浄瑠璃一座の経営について、南あわじ市に寄託されている引田家資料を基に、ごく簡単ですがあらましを紹介したわけです。


  報告時間は30分で、質疑の時間も5分ほどだったので、既発表論考(※)以上の成果はなかったのですが、まあ役割は果たせたと考えています。
  
※既発表論考とは、拙稿「人形浄瑠璃芝居一座の経営 -上村源之丞座の近代史へのアプローチ-」(徳島地方史研究会創立40周年記念論集『生業から見る地域社会』教育出版センター、2011年)のこと。

(主任学芸員 松下師一)
  

 

2014年12月2日火曜日

「歴史文化基本構想研修会」参加記 〔4〕

  
  昼食会場は、本郷地区の浅間温泉にある日本料理店です。この店は、江戸時代に藩主の別荘(専用の温泉浴場)であった建物を利用しており、まさに「殿様の湯」の気品と風格がある純日本建築です。


  玄関横には、この地の由緒を記した解説板があり、署名を見れば全史料協(全国歴史資料保存利用機関連絡協議会)でお馴染みの小松芳郎さんのお名前が記されていました。


  さあ、美味しい信州蕎麦をいただいたので、演習の再開です。まるで著名なアニメ作品に出てきそうな木造3階建て温泉旅館の横を通り、温泉街のメインストリートへと進みます。


  温泉街の中心に、昭和浪漫を感じさせる商店がありました。まさに市民レベル(庶民)の文化遺産ですね。


  温泉街から、その昔、廃線になった電車の駅跡へ向かいます。広場がきれいに整備されており、「松明(たいまつ)まつり」に使われる大松明が屋外展示されていました。


  屋外演習が終了すると、再び「あがたの森」へタクシーで移動します。旧制松本高校の講堂で、グループ討議・まとめ・プレゼンテーションです。文化庁の調査官が用意したプランを参考に、簡略な「歴史文化基本構想」を作成します。私たちのG班は、不肖私が司会進行して報告内容を取りまとめ、鹿児島県のO氏がパワーポイントに仕上げ、愛知県のS氏が壇上で発表しました。まあ、短時間で急いで仕上げたので粗雑な内容ですが、及第点はいただけたと思っています。ただ、現地調査で同行していただいた野本会長から、人材への言及がなかったことを指摘された時には、自分が議論の方向性をミスリードしたと思いました(反省)。


  とにかく内容盛りだくさんの研修で、2日目(11月28日〔金〕)の終了時刻は17時45分でした(もちろん外は真っ暗です)。

  私は翌日午後に予定があったため、それから急いで帰路につきましたが、松本からその日のうちに徳島まで帰り着くことは不可能で、途中大阪で1泊して、翌日11時すぎに「とくとくターミナル」に戻ってきました。は~、タフでした。〔おしまい〕

(主任学芸員 松下師一)

「歴史文化基本構想研修会」参加記 〔3〕

  
 28日(金)の研修では、最初1時間余り松本市の都市計画や歴史文化基本構想に関する講義を聴いた後、小グループに分かれての演習(ワークショップ)になりました。

 私はG班に入り、タクシーに分乗して松本市郊外の本郷地区へ移動しました。


 本郷地区では、本郷歴史研究会の野本会長さんと同公民館長さんのご案内の元、地域の史跡をめぐるフィールドワークの開始です。


 最初の見学地は、松本城主・水野家の墓所です。松本城下を望む丘陵地に配置されていました。私はどうしても蜂須賀家と比較してしまうので申し訳ないのですが、蜂須賀家に比べると小ぶりながら、大名家として風格ある墓所になっていました。


 続いて、浅間(あさま)温泉地区にある神宮寺を訪問しました。古く浅間(あさま)神社の別当寺であった名刹です。


 そして御射神社春宮へ移動。この神社が、古くは「浅間神社」と呼ばれたそうです。ただ、野本会長さんがおっしゃるには、当地の浅間神社は静岡・山梨に遺る浅間(せんげん)神社とは別系統の神社とのこと。


 静岡・山梨の浅間(せんげん)神社は富士山信仰だが、この地の浅間(あさま)神社は諏訪信仰とのこと。野本会長さんは、「あさま」のルーツを追い求めているそうです。


 御射神社春宮の次は、山林の中にひっそりと遺る小笠原家の墓所を見学しました。小笠原氏は、近世初期に松本城主であった大名家ですが、すぐに転封になり、こんな小さな墓所しか遺されていません。あまりの小ささに驚いてしまいました。


 小笠原家の墓所を過ぎると、林や竹藪を通り抜け、温泉街を目指します。本郷地区はとても広いのですが、今回の演習では浅間温泉地区の丘陵地に絞って急ぎ踏破しました。


 温泉街へ出ると、ようやく昼食です。〔続く〕
 
(主任学芸員 松下師一)