2014年12月1日月曜日

「歴史文化基本構想研修会」参加記 〔2〕

    
  11月27日(木)は夕方6時まで研修があり、その後も会場を松本駅前のホテルに移して懇親会が開かれました。全国の文化財行政の担当者や都市計画の関係者と歓談し、実務上の苦労話や「武勇伝」(ちょっとした自慢話)をうかがい、得るもの考えさせられるものが多くありました。

  参加者の多くは、その後も歓談に出かけたようですが、私は体調がすぐれないこともあり、宿泊先のホテルで静養しました(ちょっと残念だったかな)。

  翌朝はホテルを少し早く出て、松本市街を歩いて会場に向かうこととしました。


  松本の市街地は、江戸時代、国宝松本城を中心に南北に広がっていたそうですが、近代になり国鉄松本駅と旧制松本高校を結ぶ東西の通りが形成され、今に至るそうです。


  JR松本駅前を東へ曲がり、大通りを直進します。突き当たりが研修会場です。(下の写真は後ろを振り返って撮影したので、突き当たりは松本駅です。)


  途中、松本山雅FCのラッピングバスと遭遇しました。来季、松本は昇格してJ1です。我が徳島のヴォルティスは、来季J2へ降格です。松本の市街地は、あちらこちらに松本山雅を応援するメッセージが掲げられ、J1昇格の喜びにあふれていました。確か去年の今ごろは、徳島もこんな雰囲気だったような気がします。とほほ。 


  徒歩約30分、研修会場に到着です。昨日は路線バスに乗ったため、北側の通用口から入りましたが、今日は西側の正門から入ります。「松本高等学校跡地」という歴史を紹介する銘板の横に、研修会の看板も掲げられていますね。


  研修会場である講堂の南側には、旧制高校の本館が「あがたの森図書館」として利用されています。美しい洋風の木造建築ですね。戦前、この街が「学都」と呼ばれていたことも、納得できます。


  さあ、2日目は朝から夕方まで、びっしり研修です。気合いを入れていきましょう。〔続く〕

(主任学芸員 松下師一)

「歴史文化基本構想研修会」参加記 〔1〕

  
  11月27日(木)・28日(金)の両日、長野県松本市で開催された「歴史文化基本構想研修会」に参加しました。とても充実した研修会だったので、その内容を簡単にレポートします。


  我が松茂町から松本市までの移動は、「とくとくターミナル」(高速バス停留所「松茂」)からバスに乗車し、大阪でJRに乗り換えます。新大阪から名古屋までは、新幹線「のぞみ」ですね。


  名古屋駅に到着すると、すぐさま中央線の「特急しなの」へ乗り継ぎです。「松茂~大阪」が約2時間半、「新大阪~名古屋」が約50分、「名古屋~松本」が約2時間、乗り換え時間を含めて約6時間の行程です。上の写真は、松本駅のホームに降り立ち、長野へ向かって出発した「特急しなの」の後ろ姿です。


  松本駅から市内循環バスに乗り約15分、ようやく松本市の研修会場に到着しました。研修会場は旧制松本高校学校(現・信州大学)の講堂だった建物で、現在は松本市が所有し、「あがたの森文化会館」講堂として市民に利用されています。貴重な近代建築ということで、国の重要文化財にも指定されています。重要文化財の中で、文化庁の研修を受講するという、粋な計らいです。


  11月27日(木)午後1時、全国から参集した60余名の受講生前で文化庁の幹部があいさつし、研修が開始されました。市町村に「歴史文化基本構想」の策定を促す歴史的経緯や、先進市町村の事例が説明され、聴き入ってしまいました。特に、兵庫県篠山市の先進事例には「なるほど」と思う点が多く、今後の貴重な参考資料を得ることができたと思います。

  さて、重要文化財である講堂には、ひとつ問題がありました。十分な数のトイレがないのです。そこで、隣接する建物のトイレも利用することになりますが、そこは「旧制高校記念館」というミュージアムでした。


  トイレのついでに1階の展示をのぞいてみると、旧制松本高校だけを対象にしたミュージアムではなく、全国の旧制高校を対象にしています。私は静岡大学の卒業生なので、その前身である旧制静岡高校も展示されているかなと見学すると、ありました。小説家・吉行淳之介の展示とともに、母校・旧制静岡高校が紹介されています。「そうだ、吉行淳之介は大先輩だった。」と再確認しつつ、講堂に帰って研修を継続しました。〔続く〕

(主任学芸員 松下師一)
  

2014年8月23日土曜日

町指定無形民俗文化財「二上り音頭と回り踊り」

  
  毎年8月23日は、松茂町中喜来の呑海寺を会場に、「二十三夜」(主催:中喜来協議会)の祭礼が開催されます。せっかく視察に行ったのですが、うっかりカメラを忘れてしまい、手持ちのスマホで撮影してみました。


  境内中央に設けられた櫓の周囲を、踊り手が輪になって「回り踊り」をします。「阿波おどり」に代表される“行進踊り”のイメージが強い徳島県では、「回り踊り」はマイナーな印象です。


  櫓の上では、町指定無形民俗文化財「二上り音頭」が実演されます。太棹三味線を伴奏に、“音頭出し”が浄瑠璃くずし音頭を吟じます。近年、踊りやすいようにという考えから、拍子木を打つようになりましたが、本来は三味線と声(浄瑠璃くずし音頭)だけで踊っていました。


  櫓の中央、黒いTシャツの人物は、三味線に取り組む少年です。伝統芸能に取り組む若者がいること、とてもうれしいですね。


  一昨年から、吉野川市美郷の「廻り踊り」と交流しています。薄い青の法被が中喜来二上り音頭保存会、濃紺の法被が美郷廻り踊り保存会の面々です。


  美郷の保存会から、山岳信仰で行われている法螺貝の実演披露がありました。


  地元、喜来小学校の児童も参加して、踊りの輪は延べ1時間あまり(途中、数度の休憩あり)続けられました。


(主任学芸員 松下師一)

  

写真展 小笠原諸島 ― 世界自然遺産と鎮魂 ―

  
  今年度(平成26年度)、当館では、防衛省の「特定防衛施設周辺整備調整交付金」の交付を受け、地域の人材を活かした文化事業の充実を図っています。その一環として、8月5日(火)から、特別企画「写真展 小笠原諸島 ― 世界自然遺産と鎮魂 ―」を開催中です。
  ここでは、その様子を紹介します。


  今回の特別企画は、『松茂町誌』続編第3巻の編集に際し、徳島空港発着の航空機写真を提供くださった田中雅己氏とのご縁により、開催することになりました。田中氏は元・海上自衛官で、航空機写真の愛好家としてして知られていますが、現職当時に赴任した「小笠原諸島」の貴重な写真をお持ちでした。


  展示内容は大きく3部に分かれています。

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  第1部は、日本の最東端・南鳥島(みなみとりしま)です。面積1.5㎢しかない絶海の孤島ですが、海上自衛隊と気象庁の職員が常駐しています。この島を守ることにより、日本の排他的経済水域は43万㎢も広がります。


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  第2部は、小笠原諸島の中心地・父島母島です。平成23年(2011年)に、ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界自然遺産に登録され、その美しく、貴重な自然は世界中から注目されています。


  展示スペースの都合上、母島の展示は、ちょっと離れた場所にあります。


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  第3部は、第二次世界大戦の激戦地・硫黄島(いおうとう)です。日米両軍あわせて3万人近い戦没者があり、数多くの戦跡(せんせき)が残ります。


  硫黄島の写真は数が多いため、前編・中編・後編に分かれています。
  まずは前編「名勝と戦跡」の紹介で、昭和20年(1945年)2月~3月の激戦(硫黄島の戦い)の戦跡が続きます。


  展示ボードの角を曲がると、戦没者等の顕彰碑を紹介したコーナーです。中には、摺鉢山の山頂碑を訪れた小泉元総理の写真もあります。


  そして、奇岩や特徴的な風景など、島の名勝を紹介するコーナーです。島名の由来になった“硫黄”に関わる名勝が多いですね。


  がらりと雰囲気が変わって中編です。「遺骨収集と鎮魂」をテーマにしています。
  戦後70年近くたった今も、毎年遺骨収集が行われており、荼毘(だひ)に付された遺骨は、東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納骨されています。


  後編は、海上自衛隊を中心とする「在島業務」と、貴重な「自然」を紹介します。


  展示の最後は、北硫黄島と南硫黄島の紹介です。


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  この展示は、9月7日(日)まで開催します。観覧無料、ぜひご覧ください。

  なお、この展示は好評につき、若干の会期延長を検討中です(8月23日現在)。延長が正式に決まりましたら、ホームページ等でお知らせします。

(主任学芸員 松下師一)

  

2014年7月13日日曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔下〕

― 豊久開基碑 ―

Q(質問の要旨).2月初めごろ、環境センター南側・出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに気づきました。以前は無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
文化財が突然出現したので不思議です。

A(前回の続き).ご質問の文化財は、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(ちしょうきねんひ)」です。

  明治8年(1875年)に建立された「豊久開基碑」は、豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記す貴重な文化財でしたが、県と町の公共工事が原因となり、昭和54年(1979年)に3キロメートルも離れた広島地区の公園内に移転しました。以降、豊久の文化財は、実に30年以上にわたり「故郷(ふるさと)」を離れていたのです。

  しかし、一昨年の秋頃から、こうした状況を憂う声が上がりはじめました。「地域の歴史を伝える文化財は、やはり本来の地にあるべきではないか!」というのです。

  かつての工業団地の造成にともない、豊久から隣接する福有(ふくゆう)地区に集団移転した「豊久自治会」の関係者と、豊久の氏神である出雲神社の関係者、また境内地を共有する神明(しんめい)神社(満穂(みつほ)地区の氏神)の関係者が協力し、「豊久開基碑」を再び豊久に戻す取り組みが行われました。

  昭和54年当時と違い、豊久の堤防上に出雲神社と神明神社が整備され、ちょうどよい空き地が残されていたのも幸いでした。

  結果、文化財の里帰り事業はスムーズに進み、平成25年(2013年)の年末、34年間ぶりに「豊久開基碑」と関連する「豊久致祥記念碑」が豊久の地に戻ってきたのです。関係する皆さんからは、「うれしい。故郷の文化財は、やはり地元で顕彰していきたい。」という声が寄せられています。

「豊久開基碑」の里帰り活動に取り組んだ
(左から)香川嘉明さん・佐藤康幸さん・森豊さん

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  ところで、昭和30年代から豊久集落の世話役として長年活動された香川嘉明さんから、思いがけない指摘をいただきました。

香川「資料館の学芸員さん、連載記事に誤りがあるでよ。あの石碑は、明治からずっと豊久におったんと違うでよ。実は、・・・。」

学芸員「え、えっ! それは知りませんでした。ぜひ、その話、聞かせてください。」
(3回の連載は終了です。    ・・・でも、続きます。)    

出典:『広報まつしげ』295号(2014年7月発行)掲載。
    

2014年6月21日土曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔中〕

― 豊久開基碑 ―
    
(質問の要旨).2月初めごろ、環境センター南側・出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに気づきました。以前は無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
 文化財が突然出現したので不思議です。

(前回の続き).ご質問の文化財は、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(ちしょうきねんひ)」です。
堤防上の「豊久開基碑」〔左〕と「致祥記念碑」
(昭和50年〔1975年〕ごろ撮影)

  豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記した「豊久開基碑」は、明治8年(1875年)に建立されてから、昭和54年(1979年)までの約100年間、松茂町豊久の海岸堤防の上にありましたが、二つの理由から一旦地区外へ移転することになりました。

  第一の理由は、豊久地区が工業団地になったためです。昭和40年(1965年)に「新産業都市」の指定を受けた徳島県は、豊久地区に「松茂工業団地」を造成することとし、江戸時代以来100年以上の歴史を有する同地区から民家が無くなってしまいました。昭和49年(1974年)3月22日には、豊久の「解散式」が挙行されています。

  第二の理由は、松茂町環境センター(し尿処理場)の建設です。昭和40年代後半、松茂町は郡内各町とともに「板野衛生組合」を設立し、し尿の海洋投棄を行っていました。郡内のし尿は松茂町の今切川岸壁へ集められ、船で紀伊水道へ投棄されていたのです。当初の取り決めでは、板野郡西部に共同でし尿処理場を建設する計画でしたが、反対運動で計画が頓挫し、海洋投棄(松茂町へのし尿の集積)は長々と継続していました。悪臭に苦しむ松茂町としては納得がいかず、昭和53年(1978年)に組合から脱退し、翌年、単独でし尿処理場を建設することにしました。その際、建設予定地に「豊久開基碑」と「豊久致祥記念碑」があったのです〔写真右上〕

  当時、これら文化財の移転先を探したのですが、豊久は全域が工業団地になっており、近隣に適当な移転先がありませんでした。やむなく3キロメートルも離れた広島地区の公園内に移転することになり、以降、平成25年(2013年)の年末まで34年間にわたり、豊久の文化財は故郷を離れていたのです。(続く)

出典:『広報まつしげ』294号(2014年6月発行)掲載。
  
  

2014年5月4日日曜日

QAシリーズ 突然出現した町の文化財〔上〕

― 豊久開基碑 ―

Q.私は健康維持のため、暇を見つけては滑走路の周囲を歩くことにしています。
 
  先日(2月初めごろ)、少しコースを変えて海岸堤防を環境センターまで歩いたところ、出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに驚きました。昨年暮れに歩いたときには無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
 
  文化財が突然出現したので不思議です。

A.ご質問ありがとうございます。不思議な文化財は、写真〔右〕の石碑ですね。

  これは、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(とよひさちしょうきねんひ)」です。ご指摘のとおり、昨年(2013年)12月28日まで石碑はここに無く、町内広島地区の松茂運動公園「成人の森」(町立図書館南側)にありました。

  年末年始の間に、広島から豊久地区の出雲神社横へ移転したというわけです。不思議に思われたのも当然でしょう。

  でも、そもそも豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記した石碑が、どうして地域外の公園にあったのでしょうか。その経緯をたどると、突然出現した理由がわかります。

  実はこの石碑、明治8年(1875年)に建立されてから、昭和54年(1979年)までの約100年間は、現在地にほど近い、海岸堤防の松林の中にたたずんでいたのです。

  ところがその年、ある事情から地区外へ移転したのでした。 (続く)

出典:『広報まつしげ』293号(2014年5月発行)掲載。