たまたま参加した「大松遺跡」現地説明会(2010年7月18日)レポートの後編です。
いわゆる「貝塚」から出土した貝殻や魚の骨類です。後日、資料館でこの話をすると、「なんで昔の人は貝ばかり食べてたの?」と質問されましたが、要するに生ゴミ捨て場で、貝殻や骨だけが数100年間も残ったということですね。
ちょと気になった牛の骨です。遺跡内の水路跡から発見されたそうですが、中世の人々が牛肉を食べていたのではないそうです(解体時に骨に付くはずの傷がない)。やはり農耕用の牛が亡くなったので、死骸を水路に捨てたと理解すべきでしょう。
微笑ましい出土品もありました。「泥面子」など、子どものおもちゃです。江戸時代のものとのことですが、私たちが知る紙の面子と違って、的当ゲームとして遊んだそうです。
上の写真は、出土状況を撮影した4枚の写真を掲示している様子です。左上が貝塚、左下が牛骨、右上と右下が「貼石(はりいし)」と呼ばれる遺構の様子です。
ちなみに、プレハブの外に出ると、「あれっ? 松下さんで~。見に来てくれたの?」と、業界の知り合いに次々と声をかけられました。たまたま立ち寄っただけなのに……、自分で思っている以上に顔が売れているようです。
この説明会の前日に徳島は「梅雨明け」しており、真夏の青空の下、たくさんの人が説明に聞き入っていました。この後、遺構の見学がありましたが、残念ながらサイクリングの途中で約束の時間が迫っていたので、やむなく中座して次へ移動しました。
松茂町内もほぼ同様ですが、川内町大松といった「ゼロメートル地帯」に、なぜ中世遺跡があるのか。どんな生業であったのか。説明の途中、何度か「農業に不向きな萱野が広がる低地」というコメントがあったので、それが不思議に思われます。
すぐ近くに大松の氏神である「塩竃神社(しおがまじんじゃ)」がありますから、その辺に推測のヒントがあるのかも知れません。
(主任学芸員 松下師一)