2009年10月31日土曜日

「まつしげ人形劇フェスティバル2009 秋大会」の舞台裏

  
 10月17日(土)・18日(日)に行われた「まつしげ人形劇フェスティバル2009 秋大会」では、当館と隣の図書館に、臨時の舞台を仮設しました。

 (次の写真)は、当館の図書閲覧コーナーに、オープニングの「寿式三番叟」用の舞台を仮設している様子です。木枠を立てて、各所に暗幕を取り付けて仮設舞台にします。(ちなみに作業中の後ろ姿は、私〔松下学芸員〕です。)



 お客席の前方に畳を、後方にイスをおいて完成です。



 文化財展示室(木偶人形の展示室)には、人形浄瑠璃こども教室「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」とふれあい座「壷坂観音霊験記 内の段」で使用する舞台を仮設しました。



 当館東隣の図書館研修室には、影絵劇団はなほな用の舞台と客席を設営しました。お客席の畳の目が交互に並べられ、綺麗な“市松模様”になっています。会場担当者のこだわりが感じられますね。



 さて、今回のフェスティバルには、“てるてるアートバルーン”(橋本陽一さん)がボランティア協力してくださいました。かわいい風船のプレゼントに、お客様から大好評でした。



(主任学芸員 松下師一)

2009年10月12日月曜日

文化財展示室出入口の“のれん”

  
 今月から、文化財展示室出入口の“のれん”が変わりました。

 9月まで南出入口には“のれん”は無く、北出入口には2007年に舩井学芸員が藍染めで創作した「国文祭すだちくん」の“のれん”がありました(下記写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「国文祭すだちくん」”(2007年)

 今月からは南出入口に新たに“のれん”が架けられました。舩井学芸員作“藍染めのれん「ようこそ&まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)です(次の写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「ようこそ&まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)

 北出入口は、同じく舩井学芸員作“藍染めのれん「まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)に変わりました(最後の写真)

舩井由美子作“藍染めのれん「まっぴー&すだちくん」”(2007年~2009年)

 いずれの“のれん”もデザインは斬新ですが、当館別館の藍染め作業室で染め上げた「伝統的阿波藍」の逸品です。

 当館来館の際には、ぜひご覧になってください。

主任学芸員 松下師一

2009年10月7日水曜日

開館記念日(10月7日)を機に

  
 平成5年(1993年)10月7日に開館した当館は、このたび「開館16周年」を迎えました。

 この間、当館の総入館者(利用者)数は、32万人余となっています。人口1万5千人の小さな町の資料館(法律上は「登録博物館」)として、これだけ多くの皆様にご来館(ご利用)いただいたこと、職員一同を代表して心から感謝を申し上げます。

 思えば、当館にとってこの16年間は、前半と後半でかなり大きな質的な差異があったと思います。

 前半の8年間は、「小さいけれど、学術的な魅力にあふれた館」を目指し、企画展示と講座・教室活動に重きを置いた運営を行いました。初代館長の言葉を借りれば、「小さな単科大学」のイメージでした。

 後半の8年間は、「新分野・新事業へ積極的に挑戦する館」を目指し、学術研究活動はもちろんのこと、様々な文化イベントや新規事業に取り組みました。一例を挙げれば、足かけ4年にわたり国民文化祭「まつしげ人形劇フェスティバル」の事務局を担当し、ふるさと松茂に「文化」をキーワードにした「まちづくり」の種を蒔きました。

 さて、これからはどう進むべきか。

 開館記念日を機に、職員間で議論を深めてみたいと思います。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月4日日曜日

とてもうれしい絵葉書


 先日、版画家の井上員男先生から、絵葉書をいただきました。裏面に先生の版画作品が写真プリントされています。

 「雪国25」というとても素敵な作品で、このホームページに掲載したいところですが、当館は現品を所蔵しておらず、所有権・著作権のことが心配なので、ここへの掲載は見合わせます(井上先生ご自身のホームページに掲載されているとのことです)。

 当館所蔵の井上先生の作品は4点あります。下の(写真)はそのうちの一つ、「夕霧」(ペーパードライポイント)です。

井上員男作「夕霧」(ペーパードライポイント)

 モデルとなった木偶頭(天狗弁作「夕霧」)の美しさが、余すところ無く表現されています。むしろ、モノクロであるだけに、人形師が表現した三次元の造形美が、二次元(平面)の世界の中に、余分な色を排して、ストレートに再現されているように私には思われます。

 そんな素敵な収蔵資料の作者から、素敵な絵葉書が届いたわけですね。学芸員として、何ともうれしくてなりません。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月3日土曜日

縦書きに洋数字(1)

 
 『町誌』の執筆・編纂に携わって以来、とても頭を悩ましている問題があります。それは、本文(縦書き)中に使用される数字の表記のことです。

 既刊の『松茂町誌』では、本文の数字表記は全て漢数字を使用しています。従来の日本語表記では、至極当然のことでしょう。

 しかしながら、21世紀になり、新聞全国紙が徐々に洋数字を表記の中心にするようになりました。

 わが『松茂町誌』続編第3巻編さん室でも、昨年春の編纂事業着手以来、いろいろと意見が交わされましたが、「未だ地元新聞(徳島新聞)など多数の新聞は、漢数字が表記の中心である。」と現状確認して、洋数字への移行は「時期尚早」と判断しました。

 今年5月、ようやく漢数字を基本にした「『松茂町誌』執筆要領」を取り決め、印刷所への入稿を始めたところだったのに、なんと、なんと、……。

 6月1日に共同通信社が洋数字に移行したことから、今夏、地元新聞を含む全国の新聞(日刊紙)のほとんどが洋数字に移行してしまいました。はぁ~、悩ましい。

 とりあえず、今、洋数字へ移行する可能性を再度検討中です。はぁ~、悩ましい。

(主任学芸員 松下師一)

2009年10月1日木曜日

QAシリーズ6 「三村聯合運動会」の思い出

  
Q.私は北島町に住んでおり、今年、満84歳になります。

 毎年秋になると、子どものころに参加した「三村聯合(れんごう)運動会」のことを思い出します。確か、川内の競馬場で、北島・松茂・川内の小学生が一堂に会し、一緒に競技したと記憶しています。

 しかしながら、『北島町史』を読んでも、この運動会の記事が載っていません。昔の旧友に尋ねても、運動会があったことは覚えていますが、くわしいことはわかりません。

 何か松茂町歴史民俗資料館でわかることはありませんか。ぜひ教えてください。

(北島町在住・84歳男性)

 


A.ご質問の「三村聯合運動会」は、戦前、松茂村(現在の松茂町)・北島村(北島町)・川内村(徳島市川内町)が、文字どおり「聯合」(連合)して開催していた運動会です。

 『松茂町誌』中巻によると、「三村小学校が連合して毎年運動会が行われた。」(431ページ)とありますが、後述する資料を読むと、単なる小学校の行事ではなく、村役場・村(地域社会)を挙げての大イベントであったようです。

三木ガーデン歴史資料館所蔵「賀川家文書」 当時の資料はあまり残っていませんが、三木ガーデン歴史資料館(北島町中村)所蔵の賀川家文書(写真)によると、第1回運動会は明治33年(1900年)11月に川内で開催され、第2回は翌34年10月に北島で、第3回は35年11月に松茂で開催されています。会場は、「川内の競馬場」に固定されていたわけではなく、年ごとに持ち回りであったようです。

 また、第1回の運動会長は川内出身の衆議院議員・橋本久太郎、第2回は北島の実業家・篠原喜太郎、第3回は松茂の実業家・三木與吉郎で、三村の村長は幹事(事務責任者)という役回りでした。おそらく3村で実行委員会のような組織を作り、輪番で村の名士を会長に据え、村長(村役場)が実務を担当して開催したのでしょう。

 この『広報まつしげ』の前身である戦前の『松茂村報』を読み直すと、大正15年(1926年)9月号に、松茂で「三村聯合運動会」の協議を行い、三村長と全校長が出席している記事があります。また、昭和3年(1928年)12月号には、北島で開催された「三村聯合運動会」に県庁から来賓を迎えた記事があります。明治33年に始まったこの運動会は、大正から昭和へと、間違いなく秋の大イベントとして定着していました。

 ご質問者の思い出も、昭和初期の運動会の様子と推察されます。

*        *        *

 さて、ところがこの運動会、「いつ終わったのか?」が定かではありません。記録や資料が無いのです。読者の皆さん、「三村聯合運動会」の“最終回”について何かご存じのことはありませんか。ぜひ資料館まで情報をお寄せください。

 

※『広報まつしげ』No.238(2009年10月号)掲載。