松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館では「開館20周年」を記念して、徳島地方史研究会の第36回公開研究大会を松茂町へ誘致しました。
大会テーマは、ここ2年間の大会テーマ(「災害に学ぶ阿波の歴史」と「土地に刻まれた阿波の歴史」)を継承し、さらに松茂らしさを反映させる観点から、「吉野川流域の開発と治水」です。
100名を超えるお客様が来場されることから、本拠地である歴史民俗資料館での開催ではなく、松茂町総合会館の多目的ホールをお借りしました。
2014年3月9日(日)の午前10時、公開研究大会の受付を開始しました。待ちかねたお客様が、次々と入ってきます。
10時30分、開会です。徳島県立博物館の松永学芸員が、司会を担当します。主催者席の一番手前が私(松茂町歴史民俗資料館 主任学芸員・松下)です。
冒頭挨拶は、徳島地方史研究会の元代表・立石恵嗣さんです。本来は、徳野隆代表が挨拶と大会の趣旨を説明する予定でしたが、インフルエンザのためにダウンし、急遽、元代表に交代です。
続いて地元代表として、松茂町教育委員会の庄野教育長が、大会歓迎の挨拶を行いました。
場内のお客様は、入れ替わりがありましたが、終日ほぼ平均して100名程がおいでました。
報告者は5名。最初の報告は、徳島県埋蔵文化財センター主任研究員の島田豊彰氏で、演題は「中世阿波の船着き遺構と流通・交通」です。
島田氏は、全国的な視野から船着き遺構の事例を挙げ、その後に吉野川流域の川西遺跡・大松遺跡等の遺構を紹介されました。
続く2人目の報告は、東大阪市文化振興協会 旧河澄家学芸員の井上伸一氏で、演題は「吉野川下流域を拓いた上方の人々」です。
井上報告は、主に笹木野村・住吉新田の開発史を検証したもので、私たち徳島の郷土史家が見落としてきた県外の史料を駆使され、吉野川下流域の近世史を書き直すものでした。(私、松茂町歴史民俗資料館の職員として、優れた成果発表に感謝を申し上げます。)
お昼休憩をはさんだ後に、3番目の報告が始まりました。土木工学(史)の視点から、フジタ建設コンサルタント技術士の高田恵二氏が、「近世吉野川における河川技術と視点」と題して報告されました。
コンピュータを駆使し、現代のデジタル地形図と近世の分間図を重ね合わせる手法など、「さすがは技術者」と思わせる内容と、愚直に古文書を解読し、現地を足で歩いた成果が組み合わさり、なかなか興味深い報告でした。
4人目の報告者は、徳島地方史研究会の元代表で、現在は石井町教育委員会の社会教育指導員である立石恵嗣氏です。立石氏は、氏のライフワークともいえる「吉野川の治水と「八ヶ村堰訴訟」」の報告で、近代的な治水事業が地域社会にもたらした葛藤を紹介されました。
立石氏は、明治時代に住民が県庁を訴えた「八ヶ村堰訴訟」を、「全国的にも注目を集めた裁判」と評しており、近代化の矛盾と捉えているようでした。
最後、5人目の報告は、香川大学防災教育センター特命教授の松尾裕治氏で、報告題は「吉野川の明治以降の治水(堤防)対策」です。
松尾氏は、かつて建設省徳島工事事務所(現・国土交通省徳島河川国道事務所)に勤務され、河川整備の現場で治水研究に携わっていた経験者です。私も10数年前(『四国三郎物語』などを編さんしていた頃)に度々ご一緒させていただいたのですが、変わらぬ熱弁に感心しました。
そして最後は、全報告者が登場してのパネルディスカッションです。私がコーディネータを拝命しましたが、時間も45分と少なく、議論は消化不良だったかも知れません。
とはいえ、朝から夕方まで丸一日、「吉野川流域の開発と治水」について、その歴史を考え続けたのです。来場の皆さん一人ひとりに、某か実りある成果がもたらされたものと信じています。
午後4時45分、全日程が終了しました。
(主任学芸員 松下師一)