2月22日(日)、同僚の冨士久美子学芸員補と一緒に、第11回「四国ミュージアム研究会」に参加してきました。会場は、香川県高松市の瀬戸内海歴史民俗資料館で、風光明媚な五色台の山頂にあります。実は、40年以上も四国に住んでおりながら、この館を見学するのは初めての体験でした。
会場に到着してまず、建物の個性的な外観に驚きました。まるで中世ヨーロッパの“砦”か“要塞”のようです。玄関とおぼしき階段を進むと貼り紙があり、玄関脇の階段を下へ行くよう指示されました。研究会場は地下の会議室で、本当に要塞のような建物です。
研究会では、四国四県の学芸員から、次のような報告がありました。
- 田中謙 氏(愛媛県/今治市村上水軍博物館)「四国におけるミュージアムの現状 ― 基礎データ調査の成果を受けて ―」
- 高嶋賢二氏(愛媛県/町見郷土館)「活かせる資源になるために ― 町見郷土館の場合 ―」
- 筒井聡史氏(高知/土佐山内家宝物資料館)「博物館と地域連携 ― 土佐山内宝物資料館の試み ―」
- 辻野泰之氏(徳島/徳島県立博物館)「古生物タイプ標本の3Dデジタルデータベース構築の試み ― 日本産白亜紀アンモナイトを例にして ―」
- 松岡明子氏(香川/香川県教育委員会)「ミュージアム×古美術×未就学児 ―“小さなこどもの観覧日”の試み ―」
詳細な内容紹介は省略しますが、どの報告も実践に裏打ちされたものばかりで、とても参考になる内容でした。
* * *
さて、私にとって印象深いのは、報告・質疑後に開催された館内見学会です。そこで、思いもかけない出会いがあったのです。
その出会いは、懐かしい“人”ではありません。“船”です。
実は私、2006年秋に吉川弘文館から発売された『街道の日本史44 徳島・淡路と鳴門海峡』という本を分担執筆し、その中で鳴門市堂浦の「テグス行商」について書いたことがあるのです。少し長くなりますが、当該箇所を引用します。
堂浦のテグス行商 幕末期の史料によると、堂浦には漁師や船乗り以外に、船大工や諸職人・商人も居住していた。中でもテグス売りの商家が十五軒あった。テグスとは、鯛の一本釣りに使う天然素材の釣り糸で、ほとんどが中国大陸からの輸入品であった。堂浦のテグス商は、仕入れたテグスを近隣漁村へ販売するだけではなく、カンコ船と呼ばれる小型木造漁船(通称「テグス船」)に乗って瀬戸内海一円を行商した。
(中略)
テグス行商は、春に堂浦を出て商圏の漁村や島々を巡り、秋から冬に堂浦へ帰港した。漁村や島々では、釣具店があるところでは卸売りにし、ないところでは漁師の家を一軒一軒訪問販売した。漁の繁忙期には、沖で漁をしている釣り船に直接販売することもあった。明治以降になると船に屋形がつき、テグス商は夫婦で船上生活しながら、寄港先で客を船に迎え入れて販売するようになった。
そんな堂浦のテグス行商も、戦後ナイロン釣り糸の普及とともに徐々に減少し、ついには昭和四十七年(一九七二)の大神丸の廃船を最後に姿を消した。
2006年当時、私は『鳴門市史』を参考にしながら、今は廃れてしまったテグス行商について原稿を執筆したわけです。当初の編集方針では、テグス行商の項目は無かったのですが、私が幼い頃(昭和50年ごろ)に見たTVドキュメンタリーが印象深く、どうしても書き残し紹介したい一心から、独断で項目を追加しました。しかし、適当な資料が無く、唯一残る資料は『鳴門市史』だけという印象を持っていました。
ところが、瀬戸内海歴史民俗資料館の見学会の際、特別に案内された収蔵庫で、私は「あっ!」と驚きました。まるで体育館のような巨大な収蔵庫内に、廃船となった最後のテグス行商船「大神丸」が、そのまま保管されていたのです。感動しました。船に家を乗せたというか、むしろ家が船になったような姿に、なんだか半世紀前にタイムスリップしたような感覚を覚えました。「本物との出会い」「過去が甦るような感覚」、実に素晴らしい体験です。
残念ながら、諸手続きの事情で写真が掲載できないのですが、確かに「大神丸」は今もその姿を遺しているのです。
(主任学芸員 松下師一)