Q(質問の要旨).2月初めごろ、環境センター南側・出雲(いずも)神社の横に「町指定有形文化財」と記された石碑があることに気づきました。以前は無かったように思うのですが、いつできたのでしょうか?
文化財が突然出現したので不思議です。
文化財が突然出現したので不思議です。
A(前回の続き).ご質問の文化財は、松茂町指定有形文化財「豊久開基碑(とよひさかいきひ)」と、関連する「豊久致祥記念碑(ちしょうきねんひ)」です。
堤防上の「豊久開基碑」〔左〕と「致祥記念碑」 (昭和50年〔1975年〕ごろ撮影) |
豊久地区の開基(新田開発の由緒)を記した「豊久開基碑」は、明治8年(1875年)に建立されてから、昭和54年(1979年)までの約100年間、松茂町豊久の海岸堤防の上にありましたが、二つの理由から一旦地区外へ移転することになりました。
第一の理由は、豊久地区が工業団地になったためです。昭和40年(1965年)に「新産業都市」の指定を受けた徳島県は、豊久地区に「松茂工業団地」を造成することとし、江戸時代以来100年以上の歴史を有する同地区から民家が無くなってしまいました。昭和49年(1974年)3月22日には、豊久の「解散式」が挙行されています。
第二の理由は、松茂町環境センター(し尿処理場)の建設です。昭和40年代後半、松茂町は郡内各町とともに「板野衛生組合」を設立し、し尿の海洋投棄を行っていました。郡内のし尿は松茂町の今切川岸壁へ集められ、船で紀伊水道へ投棄されていたのです。当初の取り決めでは、板野郡西部に共同でし尿処理場を建設する計画でしたが、反対運動で計画が頓挫し、海洋投棄(松茂町へのし尿の集積)は長々と継続していました。悪臭に苦しむ松茂町としては納得がいかず、昭和53年(1978年)に組合から脱退し、翌年、単独でし尿処理場を建設することにしました。その際、建設予定地に「豊久開基碑」と「豊久致祥記念碑」があったのです〔写真右上〕。
当時、これら文化財の移転先を探したのですが、豊久は全域が工業団地になっており、近隣に適当な移転先がありませんでした。やむなく3キロメートルも離れた広島地区の公園内に移転することになり、以降、平成25年(2013年)の年末まで34年間にわたり、豊久の文化財は故郷を離れていたのです。(続く)
出典:『広報まつしげ』294号(2014年6月発行)掲載。