― 町村制施行121年目の新春に ―
Q.職場の転勤で、3年前から松茂町に通勤しており、『広報まつしげ』は休憩時間に読んでいます。特に「路傍の歴史を訪ねて」シリーズは楽しみで、松茂の歴史に関する話題がとても興味深いです。
そこでちょっと質問したいことがあります。先日、取引先の方から、「“松茂”という地名は、松がようけ生えとったけん、昔の人が付けたんよ。」とお聞きしました。「なるほどなぁ」とは思いましたが、「どれくらい昔ですか」と聞き返すと、「それは知らんなぁ~」とのことです!? この話は本当なのでしょうか。また、本当ならば、どれくらい昔のことなのでしょうか。ぜひ教えてください。
(団体職員・男性)
A.当シリーズをご愛読くださり、誠にありがとうございます。本年も、松茂の歴史に関する疑問・質問にお答えしたいと思います。
さてご質問の「松茂」の地名の由来ですが、これは取引先の方のお話に間違いはありません。この地にたくさん生えていた”松“に由来します。また、地名が付けられた”昔“というのは、今から120年ほど昔の明治22年(1889年)のことです。以下、もう少しくわしく当時の時代背景や、「松茂」の地名が創られた経緯を説明しましょう。
◇ ◇ ◇ 江戸時代、地方の行政区は現在の大字単位の「村(むら)」に分かれていましたが、近代化を急ぐ明治政府は、欧米各国を手本に「村(むら)」の再編を断行し、明治21年(1888年)4月に「市制(しせい)・町村制(ちょうそんせい)」という法令を公布しました。この法令を受けて全国各地で「村(むら)」の合併が進められ(いわゆる「明治の大合併」)、私たちの暮らす板野郡でも5~10ぐらいの「村(むら)」を新しい町(ちょう)・村(そん)に再編する取り組みが進められました。
約1年をかけた協議の結果、長原浦村・豊岡新田村・豊中新田村・住吉新田村・笹木野村・豊久新田村・満穂新田村・広島浦村・中喜来浦村・長岸村が合併に同意し、”新しい村(そん)“を創ることになりましたが、さて、ここで難問が発生しました。”新しい村(そん)“の名称です。
他の例を見れば、①中心となる「村(むら)」の名称を採用したもの(板東、里浦、等)、②地形に由来したもの(川内、等)、③史跡や古代の地名に由来したもの(応神、撫養(むや)、北島、等)、がありますが、はてさて、私たちの”新しい村(そん)“の名称はどうしたものでしょう。たぶん様々なアイデアが出され、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が交わされたに違いありません。
そして、最終的に決まったのが、郷土の風景をヒントに、健康・長寿のシンボルである”松“の名を冠した「松茂村(まつしげそん)」というわけです。
私たちの「松茂村」は、明治22年(1889年)10月1日に発足し、それから実に120年あまり、途中、昭和36年(1961年)に町制(ちょうせい)を施行し、今、空と海が輝く緑の臨空都市「松茂町(まつしげちょう)」として121年目の新年を迎えました。
(右の写真)松茂を象徴する風景“松並木”
(昭和50年〔1975年〕、中喜来と広島北川向の境で写す) ※『広報まつしげ』No.241(2010年1月号)掲載。